相手の状況が変われどわたしは人生を一貫して、幼なじみの土井のために何が出来るか考えてきたのだと思う。けれど未だに答えは出ていなかった。

席替えで丁度新しい椅子と机の席に当たったわたしはてかてかのそれを使いつつも持て余しながら、導入部分だから簡単な数学の授業を聞いていた。そんなところ何回も説明しなくてもわかるんじゃないのかと思いながら、ノートの空いたスペースに何か書こうとしたけれどいい案は思いつかず、何となしに「のために」と書いてみた。もちろんその前には人の名前が入るのだけど、誰かに見られたら大変なのでわたしだけがわかればいいと思う。土井のために。
でもどうせここに続く文も思いつかなかった。わたしの独りよがりだろう、こんなこと考えたって土井がそれを望んでいるわけでもないし、自己満足もいいところだ。
結局その四文字は消しゴムで消され、跡形もなく見えなくなった。可哀想に、とかぼんやり思っていると授業が本来の五分前に終わってクラスメイトは数名ガッツポーズを見せていた。先生が教室を出るのを見送って、公式を水色のペンで囲ったノートを閉じて机にしまう。


「おまえ、お母さんから何か聞いてるか?」


パッと顔を上げるとそこには土井がいて、そのことに驚かなかったわたしは冷静に彼の台詞を反芻し、あ、また呼ばなかった、と思った。高校からお互いを苗字呼びにすることを徹底させてからこいつは、最低限でしかわたしの苗字を使って呼び掛けなくなったのだ。一年半は経つのにまだ「って、慣れないんだよなあ。おまえの家は全員だから」とかぼやく。だからわたしはそんな土井に、当てつけのように苗字を呼んでやるのだ。もう何回も口にしすぎて慣れてしまった。いつだって名前に戻れるけど。


「え、何が?」
「さっきメールで今日の晩ご飯誘われたんだが」
「ああ。あの人自分が直接言うかわたしを通して言うかどっちかにしてほしいよね」
「いや、それはいいじゃないか」
「ごめんね、うちのお母さん土井大好きだから」
「ははっそうなのか?まあ、じゃあこれは間違いじゃないんだな」


携帯を開いてそう言う土井に苦笑いする。おそらくわたしの母からメールで晩ご飯に呼ばれたのだろう。それを何かの間違いかもしれないと思う土井が面白かった。いつの間にか、土井のアドレスは母にも伝わっていて、多分父にも伝わっているから、家と土井は全員メル友になっていた。


「にしてもおまえのお母さんのメール明るいよな」
「若作りだよね」
「そんなことないさ。でもおまえよりカラフルだ」
「…だって絵文字とか使うの苦手だし。ていうかメール自体あんまりすきじゃない」
「はは、俺も」


そういえば秋になって少し肌寒くなってきた。木製の椅子はずっと座ってないと冷たくなってしまうから嫌だ。小学校みたいに防災頭巾を敷かせていただきたいよ。今年は何色のカーディガンを買おうか。そんなことを考えていても土井はこの場を去らなかった。


「そうだ、…、」
「え、なに?」


やっと呼んだ。それにしてもやっぱりぎこちないな、とにやけそうになるのを抑えて聞き返すとムッと眉をひそめられた。どうやら抑えられていなかったらしい。


「…笑うな」
「へへ、ごめんごめん。面白くて」
。どうだ」
「なにが」
「おかしくないだろう」
「わたしを呼んでる感じしない」
「それはおまえの気の持ちようじゃないか…」


いくら苗字でも連呼されるのは照れる。呆れたように言う土井は呼び方以外で何か言いたいことがあったんじゃないのかと思ったけど本人は忘れてるのか腕組みをして唸り出した。


「うーん…ていうかそもそも女子を苗字呼びすること自体に慣れてないんだよな」
「他の人さん付けだもんね」
「ああ。……さんって柄でもないし」
「かゆいー」


さんとか土井の口から聞く日が来るなんて。痒すぎる。それにそれは他の女子と同じレベルになってしまうではないか。わたしはわがままなので、それで定着させようとするものなら即行で却下である。おちゃらけながら、心の中では嫉妬の炎が燻っているみたいだ。そんなわたしにはもちろん気付かず、土井は困ったように頭を掻きながら、他意を含めず言った。


「俺おまえ以外に親しい女子いないからなあ」


その言葉は永久保存させていただきたい。それでずっと有効であってほしいなあと思ってしまう。わたしより親しい子がいたら嫌だよ、図々しい本音はまだ言えないけど。

結局、休み時間が終わって土井は消化不良のまま席に戻って行ったけど、彼が何のために呼び掛けたのかわからずじまいだった。それで次の休み時間に少し照れたように再度用件を伝えに来たから面白かった。そういうところがすきだってことはまだ知られなくていいだろう。