いつものくせでインターホンを押してしまった。今日はみんな出掛けるって言ってたから、家には誰もいないのに。帰りは夕方頃になるって言ってたっけなあ。今朝のやりとりを思い出しながら郵便受けの前でバッグから鍵を取り出していると、『はい』通話口から反応が返ってきて驚いた。なんでって、だって予想だにしてなかったんだもの。返事があったことにもだけど、声が、


「征十郎くん…?!」
『ああ。おかえり』


こちらから顔は見えないけれど、間違いなく征十郎くんだ。インターホン越しに小さく笑う声も聞こえる。な、なんで征十郎くんがわたしの家に…?状況が読めずポカンとしていると、その間に移動したようで、すぐに玄関のドアを開けて出迎えてくれた。慌てて駆け寄る。


「おかえり、
「た、ただいまー…」


征十郎くんは制服姿だった。ブレザーは脱いでベージュのセーターをワイシャツの上から着ている、いつもの冬の装いだ。部活はどうしたんだろう、まだ午後の二時にもなってない。今日は土曜日だから、いつもなら朝から晩まで練習とか、練習試合があるはずなのに。
心配が顔に出ていたのだろう、わたしを家の中に促した征十郎くんはドアを閉めながら、「学校の都合で部活が昼に終わったんだ」と説明した。靴を脱ぎ、振り返る。


「そうなんだ、そんなこともあるんだね」
「俺もこっちでは初めてだよ。別の練習場所を押さえようとも思ったんだが、結局来週のオフを前倒して午後を休みにしたんだ」
「そっかあ。みんないつも大変だし、たまにはいいかもしれないね」
「部員もやけに喜んでいたな。もっとも、喜ばせるのが俺の役目ではないんだが」


言って、肩の力を抜いた征十郎くんに小さく笑う。強豪校の主将という役割はわたしが想像できないほど大変で、責任重大だろう。部員だけでなく征十郎くんこそ、休めるときはゆっくり休んでほしかった。手伝えることがあれば何でもしたいけど、メニューを組んだり対戦校の分析なんかは横で見ていてもちんぷんかんぷんで力になれた試しがない。
や、じゃなくて、その貴重な休日のオフに、征十郎くんはどうして……。


「あの、征十郎くん、わたしに何か用だった…?」


リビングに戻りながら後ろを歩く征十郎くんへ振り返る。聞いてしまったけど、よく考えたらわたしを待ってたんじゃないかもしれない。自意識過剰だったかも。羞恥で首元がサッと冷たくなる。それは、征十郎くんの声でいとも容易く融解したのだけれど。


「せっかくだからに会いたいと思ってね」


わっと湧き上がる感動に顔を上げる。


「あ、ありがとうー…!ごめんね待たせちゃって…」
「俺が勝手に待っていただけだよ」


優しいフォローの言葉に胸がどきどきと脈打つ。征十郎くんがわたしに会いたいと思って、わざわざ待っててくれた。その事実だけで、わたし向こう三ヶ月くらい無敵になれそうだよ。
なんでも征十郎くんは今日、叔母さんたちがちょうど出掛けようとしたタイミングで家を訪ねたらしく、もうすぐ帰ってくるだろうからと留守番を頼まれたんだそうだ。東京にいた頃から面識のある征十郎くんに全幅の信頼を寄せている叔母さんは、彼に任せることになんの不安もなかったのだろう。たしかに、留守を任せるのにこれほど安心できる人もいない。
でもそれならせめて、征十郎くんが来てることわたしに教えてくれてもよかったのに!暇だからって朝から一人でのんびりお買い物してたのが悔やまれるよ。


「征十郎くん、何飲む?おもてなしするよ!」


これから挽回すべく荷物をダイニングテーブルへ置き、問いかける。「お構いなく」にこりと笑って決まり文句を返した征十郎くんは、さっきまでそこにいたのだろう、慣れたようにこたつへ移動した。テーブルに置いてあるルーズリーフや筆記用具を見ると、どうやら待ってくれてる間部活のお仕事をしていたようだ。壁際にはエナメルバッグも置いてあり、まさに部活帰りであることがうかがえる。お家には帰らずまっすぐうちに来てくれたんだ。さっき会ってからずっとむずむずしてる心臓に手を当てる。だってもう幸せで。
お湯を沸かしながら戸棚を漁ってみるとすぐに緑茶の茶葉と紅茶のティーバッグが見つかったので、とりあえずステンレスの調理台にそれらの缶を並べた。どっちにしよう。悩んで、お茶請けに合わせようと結論づけた。といっても自分用にはチョコとかスナック菓子くらいしか常備してなかった気がするなあ……。
しゃがんで、下の段の戸棚を開ける。叔母さんたちが買ってきたであろうどら焼きが目についてしばし考え込んでしまう。あとで買うから、拝借してもいいだろうか。





ハッと顔を上げる。いつのまにかこちらにやってきていた征十郎くんが、カウンターから覗き込むようにわたしを見下ろしていた。それからキッチンに回り込む。


「途中でシュークリームを買ってきたから一緒に食べないか?」
「えっ、ほんと?」
「ああ。前にがおいしかったと言っていた店の。俺も気になっていたから」
「あそこの?!わー、ありがとう!」


スクッと立ち上がる。叔母さんたちに頼んで冷蔵庫に入れさせてもらってると言う征十郎くんの言う通り、開けると中段に洋菓子店のロゴが入った紙箱があった。どう見ても二個用の大きさじゃないから、多分うちの全員分あるに違いない。予想通り、全員分あるよと征十郎くんは付け足した。わたしの方がよっぽどお構いなくだ。申し訳なくて恐縮してしまう。


「お気遣いありがとう…」
「約束もせず押しかけたんだからこれくらい当然だよ」
「そんなあ、叔母さん喜んだでしょう」
「ああ、確かに」


思い出したのか、征十郎くんは口に手を当て少し笑った。前にわたしが気まぐれに買ったシュークリームを家の人と食べたとき、特に叔母さんが大絶賛していた。カスタードと皮がとてもおいしくて、次の日征十郎くんと帰る途中、お店の前を通ったときにも話をした。また何かの機会に買おうと心に決めていたほどで、征十郎くんも覚えていてくれたのが嬉しかった。
箱ごと冷蔵庫から取り出す。シュークリームなら、紅茶がいいよね。聞くと二つ返事で頷かれる。
その、征十郎くんの眼差しが優しげで、緑茶か紅茶かの話ではなくて、なんというか、さっきの続きみたいな気がした。首をかしげると、彼はより一層笑みを深めた。


「俺のおかげでが京都の学校も楽しそうでありがとうと言われたよ」


言ったのは叔母さんだろう。「その通りだよ」即答すると征十郎くんは続けて、「こちらこそ、俺と一緒の高校に来てくれてありがとう」と言った。わたしがついていきたくて勝手にやったことが、征十郎くんにとってもいいことだった。そんな嬉しいことがあっていいのか、今でもたまに、夢を見てるのかもと思うよ。
そうだね、そもそも征十郎くんが洛山にスカウトされなかったら、わたしが京都の親戚のお家に住むこともなかったものね。本当に、京都でよかった。他の都外の高校だったら、わたしどうやってついていけただろう。

お湯が沸騰したので、茶器とお皿を出して準備をする。征十郎くんはわたしの家に上がったことがほとんどないので勝手がわからないらしく、珍しくわたしが活躍した。代わりに、二人分の紅茶とシュークリームとお手拭きを乗せたトレーを運んでくれた。
暖房がついていて暖かいからかこたつの電源は入っておらず、掛け布団の中に潜らせた足は少し冷やっとしたのでそばのスイッチをオンにする。征十郎くんとは四角いテーブルの直角を挟む位置に座り、マグカップとシュークリームを並べる。さっきあった彼の荷物は片付けられたようで、今はテレビのリモコンや新聞紙しか置かれていなかった。
まだ午後の二時過ぎで、冬とはいえ外も明るい。南向きの窓から差し込む日差しだけで十分だった。紅茶をすすり、マグカップを両手に包んだままほっと息をつく。


「爪、綺麗だね」
「うん!この色も素敵だよね」


征十郎くんに近い左手のひらを下に向けてみせる。昨日の放課後実渕さんに塗ってもらったマニキュアのことだ。コーラルピンクというらしく、オレンジとピンクの間のような色に染まった十枚の爪はトップコートのおかげでテカテカと光っている。ちょっと派手かもしれないと思いつつ、一目惚れの誘惑に勝てず選んでしまった。
実渕さんはとても器用で、毎回丁寧にマニキュアを塗ってくれる。本人も興味はあるのだけど、部活柄指に装飾はできないので他の人に塗ることで欲求を満たしているんだと言っていた。でも、その話をしていたとき目線を落としていたので、もしかしたらペディキュアは塗っているのかもしれない。わたしも自分で足に塗ってみようかなあ。今度出掛けたとき、ドラッグストアで探してみよう。
考えていると、征十郎くんの手が伸びてきた。わたしの小指を、人差し指と親指で優しく挟む。ふわっと、心臓が浮く感覚がした。


「もう完全に乾いているんだな」
「うん、……」


征十郎くんの親指がわたしの爪を撫でる。柔らかいものを大事に慈しむような触り方に顔が熱くなる。心臓もぞわぞわとむず痒い。なんか、とても恥ずかしい……。


「今度俺にも塗らせてくれないか?」
「えっ」
「…駄目か?」


わたしの動揺に少し驚いたような顔をした征十郎くん。違う、嫌って意味じゃない。慌てて口を開く。


「だ、だめじゃないよ!ただ、ちょっと恥ずかしいかもって思って…!」
「……」


征十郎くんは丸くなった目で二秒間わたしを見つめたあと、小指からパッと手を離した。斜め下へ逸らす。


「……すまない。迂闊だった」


そう言って手で口元を隠す。とても珍しい、征十郎くんの、まるで照れてるみたいに悩まし気な表情にわたしもますます赤くなってしまう。テーブルに広げたままの左手が、特に小指が、じんじんと熱を持っているようだった。


「交際前に気安く触るのはよくないな」
「こ……」


交際前……そういう意味、かあ……。やっぱり気恥ずかしい。でも、気にしなくて、いいんだけどなあ…。わたしが征十郎くんに嫌と思うわけないのに。


「わたしは、大丈夫だよ…」


頬は真っ赤だろう。俯いたまま、振り絞るように伝えると、征十郎くんは少しほっとした声で、ありがとうと答えた。





どぎまぎしてしまう空気は別の話題で次第に薄れ、学校のことや部活のこと、先月末の東京に帰ったときの話をたくさんした。征十郎くんとは会話がなくても安心するのだけど、学校ではあんまり一緒にいられないので話したいことがたくさんあるのだ。征十郎くんの落ち着いた笑顔やわたしをじっと見つめる目がすきで、思いつくままとりとめのない話をしてしまう。

一緒にいてほしいって言ってもらえた先月から、学校でも気兼ねなく話せるようになった。それに、恐れていた事態にも思ったほどならなかった。わたしという幼なじみの認知度は急上昇してしまったらしいけど、そのせいで悪いことにはならなかったのだ。知らない人にときどき話しかけられたり、じろじろ見られるくらいだ。
というのも、気兼ねなく話せるようになったからといって小学校の頃みたいにいつも一緒にいるわけじゃないからだと思う。征十郎くんはバスケ部の主将で、生徒会長で、大変忙しい身の男の子だ。クラスも違うし普通に学校生活を送っていたらそもそも接点がない。なので、側から見るとそこまで急激な変化はないんだろう。わたしはそれがほっとするような、残念なような、また自分勝手なことを考えていた。

あっという間に時間は過ぎ、夕方頃、征十郎くんはそろそろお暇するよと言って帰り支度を始めた。叔母さんたちからもうすぐ帰るとの連絡をもらったタイミングだった。
見送るため玄関までついていく。明日も終日練習があるそうだ。冬の体育館が凍えそうなほど寒いことは授業で身にしみているので、頑張ってねと妙に実感のこもった激励を送る。エナメルバッグを肩にかけ、ローファーを履いて、わたしに振り向いた征十郎くんがゆっくりと目を細める。


「今日、を出迎えられて嬉しかったよ」
「え…」
「昔から思っていたんだ。他に何が起ころうと、と同じ家に帰れたなら、俺は安心できるんだろうと。それが実現できたようでよかった」


「思った通り、安心できたな」どきどきと心臓が脈打つ。首が熱い。顔も真っ赤だ。いっそ泣いてしまいそう。
征十郎くんがわたしを必要としてくれているのが嬉しかった。征十郎くんが、何かに対して大変だなあつらいなあと思ったとき、同じ家だったら、別々の家にいるよりきっとたくさん助けられる。話を聞くことも、暖かい飲み物をつくることだってできる。征十郎くんが安心できるなら、いくらでも、なんでも差し出せる。何も心配いらないよ。


「なんでもあげる……征十郎くんになら、わたしのぜんぶあげるよ…」


俯いた視界で、征十郎くんが身じろぎしたのが気配でわかった。わたしはというと、口をついた言葉がどこに着地するのかわからないまま、手持ち無沙汰の両手を胸の前に、コーラルピンクの爪を親指でこすっていた。「だから、あの……だから…」「ああ、」征十郎くんも困ったように相槌を打つ。


「……今度は、わたしが家で待ってるよ!」


勢いに任せて言いきった。それから、おそるおそる見上げる。征十郎くんは呆気に取られた表情から、肩の力を抜いて、柔らかい、幸せそうな表情でくすりと笑ったのだった。


「ありがとう。楽しみにしているよ」


うん、と大きく頷く。ああわたしも、征十郎くんと同じ家に帰れたら、きっとずっと安心だろなあ。