雨の日のラウンジはいつもより人が少ない。ソファ席に座りながら周りを見回すも、これから話す内容を聞かれたら困るような人物は見当たらなかった。たとえ聞かれたところで、目の前の彼女には今更な話かもしれない。だってこの議題について話し合うのは何も、今日が初めてではないのだから。


さん、大丈夫ですか?」
「う、うん…助かったよ文香ちゃん、ほんとにありがとう…」
「いえ」


 依然頬を真っ赤に染めるさんがへにゃりと笑ったのにつられてほんの少し肩をすくめる。「間に合ってよかったです」本音を口にすると、彼女はぶんぶんと音が鳴りそうなくらい大きく頷いた。


「文香ちゃんが来てくれてなかったら倒れてたよ…!」
「ふふ。もし倒れても、きっと隊長が助け起こしてくれましたよ」


 ちょっとした悪戯心で言うと、ひゅっとさんの喉が鳴った。想像したのだろう、顔は一層赤くなったり青くなったりしている。「わ、わ〜〜、しんどい!心臓への負荷が…!」震えるような声で胸を押さえる彼女。目は潤んでいて、言葉通り心臓を酷使していることがうかがえた。それを見てわたしは、くすりと一つ笑う。
 さんが柿崎隊長のことをすきだと知ってから、もう二、三か月は経っただろうか。あの頃から隊長を前にすると極端にテンパってしまう彼女は今になっても慣れる気配はなく、今日も茹でダコ状態で大事になる一歩手前だった。隊長とさんの会話がスムーズに進んだことはほとんどなく、さんが逃げるように退散して終わるのが常だった。隊長は隊長でそんな奇怪なさんの言動を不思議に思いつつもまさか自分に好意があるからだとは露ほども思っていないようで、顔を合わせた際には毎回気さくに話しかけている。そしてさんがテンパり逃走、というループがわたしの目の前で繰り広げられていた。
 隊長以外の隊員は歳上二人の恋愛模様を重々承知の上ではあれど、何かしらの働きかけをしようとする様子はない。わたしもさんの逃走経路を作ってあげる以上に具体的な助言をしたことはなかった。なぜかというと、純粋に興味があるからだ。


「今日の柿崎くんもかっこよかった…かっこよすぎてびっくりした…」
「隊長は雨の日はルームランナーで走り込みをしてるんですよ」
「そうなんだね…!全然知らなかったよ…汗かいた柿崎くん作戦室から出てきたとき卒倒するかと思った…」


 さんが本当に深刻な表情で言うのでつい笑い声が零れてしまう。先程彼女はオペレーター仲間の真登華に用がありわたしたちの作戦室に赴いたらしいけれど、真登華はまだ来ておらず不在だった。作戦室に行けば隊長がいることは少なからず想像していたと思うけれど、たとえ身構えていてもトレーニング中の彼に出迎えられるのは心臓に良くなかったのだろう。さんのうろたえぶりは想像に難くない。
 アイスティーを飲み、ふう、と一息ついたさんはそれから、でもこんな逃げてばっかじゃ、と呟いた。弱々しく、自信を消失してしまったような声だ。うかがうように耳を澄ませる。


「柿崎くんに嫌われてもおかしくないよね…」
「そんなことないですよ。後ろ向きにならないでください」
「文香ちゃん…優しいねえ…」


 もうダメだと言わんばかりの後ろ向き具合に背中を叩きたくなる。諦めないでください、そんなんじゃ、隊長が気付くものも気付かない。さんが頑張れるのならまだまだ頑張ってほしかった。
 アドバイスはいくらでも思いつくものの、ぎゅっと口を噤んで我慢する。……じれったい。二人を見ているといつもそんな感情が心を支配する。口を挟みたくなるのだ。例えばわたしの、柿崎隊への配属希望の理由を伝えることでさんに危機感が芽生え、結果として背中を押せるだろうか。少し考えて、否定する。この人のことだ、わたしと自分の好意を同じものだと考え気を遣ってしまうだろう。もしかしたらわたしの目を憚るようになってしまうかもしれない。それは絶対に嫌。さんにはこれからもわたしに頼ってもらいたい。こんなことを考えている時点で歳上の女性に対して失礼かもしれないけれど。


さん、」

「お、よかった。いたな」


 顔を上げると、向かいから隊長が歩いてきていた。ガバッと勢いよく振り向いたさんの斜め後ろの位置で立ち止まりわたしたちを見下ろす。換装しているのを見て、咄嗟にラウンジの壁掛け時計に目をやった。十一時五十分。もうすぐ防衛任務の時間だった。


、真登華来たけど、任務があるから…」
「あっいっ、だっ…だい…大丈夫です…」
「隊長。用件は聞いたので、あとでわたしから真登華に伝えますよ」
「そうか?ならよかった」


 コクコクと頷いて俯いてしまったさん。これ以上会話は難しそうだ。いつも通り逃走経路を作るべきか逡巡していると、隊長が「そうだ、」と話を変えた。


「明日熊谷たちとバスケするんだ。と文香もどうだ?」


 さんの肩がビクッと跳ねたのを横目に、「はい、ぜひ」と答える。さんは茹で上がったように真っ赤になりながらゆっくりと顔を上げた。しかし隊長の顔の位置までは上がらない。涙目の彼女に、さすがにアシストなしではキツそうだと察し口を開いた瞬間、彼女はこれまた勢いよく立ち上がった。


「あっ、あの、わたし、お暇しまひ…!」


 明らかに噛んださんは顔を真っ赤にしたまま、全速力で走り去っていった。口を隠していたので舌を噛んでしまったのかもしれない。気にかかりつつも任務があるので追うことはせず目で見送っていると、同じくポカンと呆気にとられた表情で見送っていた隊長が、おもむろに口を開いた。


「…なあ文香。もしかして俺、にすげえ嫌われてんのか…?」
「…そんなことないと思いますよ」


 いけない、さんの奇怪な言動の理由が、隊長の中でよくない場所に着地してしまう。さすがにそう思われても仕方ないけれど、お互いがお互いに嫌われてるかもしれないと思うのは不幸でしかないので、誤解は早めに解いてほしい。そのためには、やっぱりさんを焚きつけるのが一番良さそうだ。


「……ふふ」


 思わず笑みがこぼれてしまう。最近気付いたのだけれど、この二人、すごく見守りがいがあるのだ。さんのうろたえっぷりも隊長の鈍感っぷりも予想外ばかりで飽きない。いつか二人の気持ちが通じ合うときにはぜひ近くで見ていたい。この二人、きっと結ばれたあとも楽しいに違いないわ。



いとしくおもうのです(190901)
title:金星