窓を全開にして涼んでいた男子が帰り際、閉めたほうがいい?と聞いてきたので、迷わずううんと首を振った。戸締りの最終確認は日直の仕事なので当然やっていくつもりだったし、冷房の切れた屋内では外から入ってくるそよ風が頼みの綱だ。カンカン照りだった日中の余韻が残る夕方四時では教室にじんわりと熱がこもり始めている。サウナになる前にぜひとも早く帰りたい、けれど、まだ時間はかかりそう。シャーペンを握る手に力が入る。
 放課後の掃除はどこも終わったらしくクラスメイトは我先にとスクールバッグを背負って帰っていったため、今や三年C組に残っているのはわたし一人だけだ。机の整理整頓はした、黒板の右端に明日の日付と日直の名前を書き直した。あとはこの学級日誌さえ提出すれば帰れる、というのに、困ったことに手の動きがおそろしく鈍いのだ。時間割と教科担任の欄までは順調だったのに、授業内容について書く欄に入った途端ちっとも筆が進まない。書くべき言葉が思い浮かばず、さっきなんて無駄にあいうえおと書いてしまったくらいだ。どうしようこのままじゃ遅刻する……。追い立てられるような焦りに余計頭は混乱し、ついにシャーペンのグリップで指が滑ってしまった。それを皮切りに、集中力はプツンと切れ、もう降参と言わんばかりにわっと万歳したのだった。
 まったく、たかだか学級日誌一ページに何を手こずってるんだ!高校生活三年目にもなれば日誌を書く機会なんて何度とあったろうに!自分で自分を叱責するも反骨精神の養われていないわたしに何だとこのやろうとやる気がみなぎるわけもなく、万歳の姿勢から後ろに背伸びするようにさらに脱力するばかりだ。全然だめだ。なんせ、日直であることを放課後に知ったんだもの。日誌を書くという責任感を持って過ごしてはいなかったし、特別今日は放課後のことで頭がいっぱいだったから授業の記憶があんまりない。今日の欠席者はボーダーの影浦くんだと教えてもらって知ったくらいだ。来てなかったっけ、影浦くん存在感濃いから逆に毎日いる気がしてしまう。内心衝撃を受けていたので、ついでに遅刻者のことを聞くのを忘れたのは痛恨のミスだった。

 伸びから元に起き上がり、深呼吸をする。すると、ふわっと生暖かい風が頬を撫でた。惹かれるように窓の外を見やる。ここからでは夕方に向け深まってきた太陽の光に照らされる別棟と中庭しか見えないけれど、遠くから外部活の活気ある掛け声が聞こえてくる。テンポの速いファイトと合いの手の応酬にわたしも一緒にランニングしている錯覚を覚える。すぐに、いやいやと首を正面に戻したけれど。……こんな日まで練習なんて大変だ。でも始まるのは夜からだから、行こうと思えば行けるのかな。

 ふうと息をつく。暑い。やっぱりそよ風なんかじゃあ熱が身体を蝕むばかりだ。制服の下に不快感を感じ始めたので、セーラー服の胸元あたりを掴んで前後にバタバタと動かす。こうすると風が入ってきて気持ちがいいのだ。少し気が紛れるなあ。
 改めて日誌に向き直るも、ノー勉で挑んだ小テスト並みの空欄の多さに途方もない気持ちになってしまう。一限の古典、もうすでに記憶が怪しい。授業内容を一言で表せと言われても困る。授業の様子なんて覚えてない。やっぱり進まない手に日誌を投げ飛ばしたい衝動に駆られる。でも書いて担任の先生に出さないと帰れないんだぞ。夕方友達と約束してるのに非常にまずい…!
 肘をつき頭を抱えていると、今度は校舎内の階段を上る足音が響いてきた。うちの高校はD組とE組の間に階段があるので普段は聞こえないけれど、静まり返った放課後では耳を澄ますとわずかに聞こえてくるらしい。二階の三年のクラスに来るかはわからないけど、教室のドアは前後両方とも開いてるから知らない人と目が合って気まずくなるのは避けたい。思い、なんでもない風を装って頬杖をついて前を向いていると、足音は二階に到着するなりはっきりと明瞭になった。廊下を歩く音が近づく。強めの音色に男子だろうと当たりをつけて間もなく、それが止まった。


「残っていたのか。まだ」


「……あっ、うん!」振り向きざま素っ頓狂な声を上げてしまう。まさかの、クラスメイトの穂刈くんだった。予想してなかった人物に一度合った目はすぐさま宙を彷徨う。教室には誰のカバンもないから、てっきり他クラスの人だと思っていたのだ。それに今の時間校舎にいるのは部活の人くらいだから、特に穂刈くんは予想してなかった。
 当の本人はそれ以上は口を閉じ、全開の入り口から教室に入ると迷わず後方の自分の席へ行き机の中を覗き込んだ。そこから黒いクリアファイルを引き出したのを窓際の席からさりげなく盗み見る。手紙が入ってるファイルかなと想像して、問うことはしない。実は穂刈くんは唯一三年間同じクラスの男子なのだけれど、親しいわけでもないためこんな距離感だ。あんまり話したことがないせいか寡黙な人という印象がある。でも友達とはよくしゃべるのか和気あいあいと雑談に花を咲かせる姿も見かけるので、不思議な人なんだなと密かに思っている。
 ファイルを開いて中身を確認している穂刈くんの気配を感じ取りながら、彼から目を離して学級日誌を見下ろす。穂刈くん、今日の遅刻者知ってるかな。聞こうかな、と企んですぐ、彼自身が遅刻者であることを思い出した。……四限ぎりぎりに教室に入ってきてた気がする!多分ボーダーの仕事だろう。
 ラッキー!と言わんばかりにシャーペンを走らせる。他にもいるかもしれないけど、一人書いておけばそれっぽく見えるだろう。さっき一度書いたばかりの彼の名前を日誌にも書き、ちょっとの進歩に得意げな気持ちになる。このまま他の空欄も適当に書いて埋めてしまえ。なんだか一気に調子出てきたぞ。
 カリカリとシャーペンを動かしていると、穂刈くんも用が済んだのか入り口へと移動していくようだ。さっき廊下からも聞こえた重めの足音が耳に届く。後ろから入ってきたのに、出るのは前の入り口なんだなあ。


「行かないのか?は祭に」
「えっ?」


 油断してたせいで大きな声が出た。顔を上げると同時に肩が跳ねるというオーバーなリアクションをしてしまうも、穂刈くんが反応を示すことはなかった。リアクションが大げさだとからかわれることもあるから、気にしないでくれる穂刈くんは、なんか、無性によかった。それで、ええと、お祭りね。そりゃーもう。


「行くよー!穂刈くんも?」
「ああ。行くぞ、鋼たちと」
「おー、村上くんたち」


 いいねー、と肩をすくめる。今日の一高はお祭りの話題で持ちきりだった。会場が高校から近いので一高の生徒はほぼみんな行くのだ。わたしも毎年行ってるし、声をかけたことはないけど穂刈くんを見かけたこともある。「会うかもな。向こうで」「そうだねー」会ったらあいさつしたほうがいいのかな。何てことない会話に、今まで意識したこともなかった同じクラス三年間という重みが感じられる。穂刈くんもわたしとの関係に無意識の重みを感じてるのかな。なんて、今までまともに会話したことないくせに調子がいいんだから。
 でもせっかくの縁だ。このふわふわとわくわくが混ざったようなメレンゲみたいな感覚をもっと味わいたい。そのためにも早く日直の仕事を終わらせなきゃ。帰って浴衣に着替えるのだ。ええい日誌め。


「帰れるといいな、早く」
「うん……あはは」


 はにかんで頭を掻きながら、未だに目処が立ってないんだけど、と心の中で付け加える。そういえば、穂刈くんは自分が明日の日直だって知ってるかな。黒板へ目線を移すと、白のチョークで彼の苗字が書かれている。わたしの字だ。さっき書いたばかりのほやほやだ。
 廊下へ出ようとした彼もタイミングよく黒板の前で立ち止まり、それを目にしたようだった。見つめたまま、なぜか動きを止めた穂刈くん。じ、自分が書いた字をまじまじと見られるの恥ずかしいな……。つい居たたまれなくなり、日誌へ俯く。
 すぐに、立ち止まったままの穂刈くんが何かをしだした気配を察して、おもむろに顔を上げる。かろうじて黒板消しを黒板の下にある溝に置くのは見えた。

 斜め後ろから見える穂刈くんの口角が、ほんのすこし上がってるように見えた。見間違いか、と真っ先に思う。しかしそれは、彼がこちらに振り向いたことで現実だと証明される。


「じゃあな」
「うん……じゃあねー」


 半ば呆然としながら、背を向けた彼へ別れのあいさつをする。わたしはすっかり、初めて向けられた表情に驚いてしまっていた。大人びた印象の穂刈くんが、いたずらっぽい顔をするなんて。その衝撃たるや今月一だろう。
 珍しいもの見ちゃったなあ、と一人頭を掻く。それからすぐに、どうしてあんな顔をしたんだろうと気になった。まさか穂刈くんの気まぐれなはずがない。彼のことは詳しくないけれど、何か理由があるだろうと直感した。
 ヒントといえば黒板の前でしていた何かだろう。顎に手を当て、さっきまで穂刈くんが前に立っていた黒板へ目を細める。穂刈くんは何をしてたんだ?黒板消しを持ってたってことは、何かを消したのかな。もしかして日にち間違ってたのかな……と7月の文字から下へと目を滑らせる。


「――あっ?!」


[穂刈]の穂の点が消えてる?!
 咄嗟に日誌を見下ろすと、遅刻者の名前には当然と言わんばかりに点がついていた。その瞬間、穂刈くんの行動も笑みも何もかもを察したわたしは、飛びつくように消しゴムに手を伸ばし目にも留まらぬ速さで問題の一画を消した。目測を見誤って消さなくていいところまで消えてしまったので、もう穂の字を全部消して一から書き直した。点は、なしだ。


「……あ〜…!」


 我慢しようとしたけれど堪えきれず、背筋を丸めて熱くなった両頬を覆う。穂刈くんが笑った理由絶対これだよ!恥ずかしい!というか申し訳ない!!わたしはもうよっぽど、廊下を絶叫しながら走り出したいような、誰かの背中をバシバシ叩きたいような衝動に駆られたのだけれど、妥協して足をバタバタさせるだけに抑えた。机の天板に膝を思い切りぶつけてもお構いなしだ。
 お祭りで会ったらどんな顔して謝ればいいんだろう。穂刈くんはどんな顔するんだろう。いろんな想像ができてしまって、お祭りが億劫なような楽しみなような、とんでもなく複雑な気持ちになるのだった。



名前を呼ぶから振り返って(200809)
title:金星