お恥ずかしいことに、わたしは三雲くんが正隊員になっていたことをつい最近まで知らなかったのだ。


 今年の春、筆記と体力テストと面接を経て入隊試験を見事合格したわたしは半ば有頂天だった。入隊式で渡されたトリガーという道具で変身すると、不思議と自分の身体じゃないような力が湧いてきた。テレビに映る嵐山隊に憧れて飛び込んだボーダーはまったくの未知の世界で、わたしも彼らみたいにバッタバッタと敵をなぎ倒して活躍するんだと、そんなまばゆい理想を抱いていた。

 オリエンテーションの一つとして連れていかれた先で、仮想戦闘訓練と称し、見覚えのある近界民と一対一で戦うことになった。制限時間五分、倒すのが早ければ早いほど評価点は高くなる。そんな説明を反芻させながらブースに入り、対峙する近界民に固唾を飲み込む。手の甲に浮かび上がる1000の数字に目を落とし、武器を構える。浮き立つ心臓を深呼吸で静め、「始め」の合図に背中を押されるように、全力で突進した。

 まばゆい理想は、抱いて一時間と経たないうちに、現実をもって打ち砕かれることになる。





「行ってきます」


 今日は今シーズン初日のB級ランク戦を観戦しに行くつもりだ。リビングでソファに座ってテレビを見ている母親に声をかけると、「気を付けてね」と見送られる。肩越しに見えたテレビ画面では、今週の頭にあった記者会見のダイジェストが流れているらしい。もう何度も見た映像から目を逸らし、母の物憂げな声には気付かないふりをして、ブーツに足を突っ込む。二月に入ってますます冷え込んできた外への防寒対策はばっちりと言わんばかりのダッフルコートを着込み、さあ出陣だと玄関のドアを開いた。途端、ぶるっと震え上がる。
 自宅から一番近い連絡通路を目指して歩く足は一秒でも早く外気から逃れるべく、前へ前へと足早に進んでいく。吐き出す息が白い。前を向いて歩いていたつもりが、いつの間にかアスファルトの地面へと俯いていた。

 気付けば、三門市を震撼させた大規模侵攻から二週間が経とうとしていた。あれがあってから、家族はボーダーに所属する娘を殊更に心配するようになった。早い話が、辞めたらどうかと促してくるのだ。正隊員ならまだしも訓練生の身であるわたしは今回近界民に連れ去られた人たちとまったく同じであり、何かが違っていたらあちら側に連れて行かれていた。心配する側の言い分はこれほどなくもっともで、わたしはそれに対して一度も論破できたことがなかった。そのくせ、心に響いたことも一度もなかったけれど。

 連絡通路を通り、まっすぐランク戦の観覧席へ向かう。初日というのもあって人入りは上々だった。解説席よりずっと後ろの方に空席を見つけ滑り込むように座ると、間もなくして、今回の実況と解説の隊員がやってきた。


(えっ?)


 思わず目を見開く。よっぽど声が出そうになるのを口を覆うことで抑え、ここから見える後ろ姿を凝視する。


(なんで?三雲くん)


 真ん中の席に座った男の人はどう見ても三雲くんだった。自分の目が信じられず、まるで化けて出てきた幽霊でも見るような眼差しで彼を見てしまう。
 解説席の三人の姿が並ぶと、ほどなくしてオペレーターの武富さんがマイクを通して観覧席へあいさつを始めたようだった。彼女の紹介で、三雲くんが怪我のため試合を欠席したことを知る。その後、前シーズンでも聞いたランク戦の説明を聞きながら、わたしは依然、三雲くんの背中を穴が空くほど見つめていた。
 彼がここにいるのは予想外だった。てっきり、目の前のモニター越しに見るとばかり思っていた。三雲くんの怪我の程度は知らないけれど、たしかに記者会見での彼は、腕のギプスに松葉杖と、重傷病人のようないで立ちだった。

 三雲くんがB級に上がっていたことを偶然にも知ることになったのは、彼の身も心も苦しめた、まさに大規模侵攻の最中だった。
 訓練生として市民の避難支援をしていたわたしたちの前に現れた彼は、C級の画一された白い制服ではなく、青緑色の隊服を身にまとっていた。久しぶりに見た彼のまったく見慣れない姿に、一瞬、同期の三雲くんであることを認識できなかった。
 なにせ見た目だけでなく登場の仕方も信じられないほど派手だったのだ。見たこともない近界民からの攻撃に逃げ惑うわたしたちを助けるだけでなく、なんと有名人の木虎さんと一緒に現れたのだ。あの状況で、わたしの知ってる三雲くんと同一視できないのも無理ないでしょう。木虎さんと三雲くんのツーショットなんて想像したこともなかった。
 しかし呆けてる場合ではなく、すぐに我に返ったわたしは避難を再開した。警報後ずっと緊張で高鳴っていた心臓が別の意味でバクバクと鼓動していた。その原因がわからないまま、市民を誘導しながら振り返ると、三雲くんが近くの訓練生の女の子たちと何かを話しているのを目撃した。
 一瞬、金縛りにあったみたいに動けなくなる。


 三雲くんがロクに解説することもなく、三雲隊の初戦は完勝で幕を閉じた。隊長を欠いているにもかかわらず彼のチームメイトたちに目立った粗はなく、むしろ真逆の部分で強烈に目立っていた。一気に8得点を挙げたスコアなんて、初めて見た。
 大規模侵攻のときに三雲くんが話していた女の子の一人が、スナイパーの雨取さんだというのはすぐにわかった。小さくて可愛い女の子だ。どういう関係なのかはわからない。けれど、チームを組むくらい親しいことは確かだ。あのときは彼女もC級だったのに、この短期間で昇格していたらしい。

 観覧席全体がお開きの流れになっても、しばらく立ち上がることができなかった。三雲くんが、武富さんと佐鳥先輩と一緒に退室していく。終始あまり良くない感情を練りこんだ視線を送っていたつもりだけれど、彼が気付くことはついぞなく、外廊下へと姿を消した。わたしといえば、とても虚しい気持ちになって、それから、そりゃそうだと思い直す。気付くわけない。だって、三雲くんはわたしのことなんか知らないもの。
 三雲くんが玉狛支部の所属だというのも、ランク戦を機に知った。三雲くんはこれからチームの人たちと合流するのだろう。仲睦まじく勝利の喜びを分かち合う光景を想像して、また金縛りみたく全身が硬直する。特に心臓はカチコチになったみたいに重く、岩でも埋め込まれてるんじゃと思うほどだった。





 C級ランク戦ブースで保持ポイントの微増微減を繰り返し、日も落ちてきそうになった頃、基地を出た。親の不安を少しでも和らげるため、ここ数日は日没前に帰るようにしていた。果たしてこれに意味があるのか不明だけれど、夕食前に帰ってくることに少なからず安堵しているのは確かなようだった。べつに夜遅くまでボーダーにいることと家族が懸念していることは繋がらないはずなのに。いつまでこんな窮屈な生活が続くんだろう。

 腹の底にどろどろと溜まった憂鬱の、ほんのうわずみだけを吐き出す。ふと顔を上げると、夕焼け色の街並みに道行く人が見える。警戒区域の近くではあったけれど、二週間も経つと元の日常に戻るらしい、被害の少なさが奏した功だ。
 進行方向の十字路の先には川に架かる橋がある。自宅に帰るには川に沿うように左折するので、渡ったことは一度もなかった。見慣れた橋の向こう側の光景が、ふいに未知の世界のように見えた。車道を挟むように脇に伸びる歩道をぼんやりと眺める。
 それから、ハッと目を丸くする。視界に飛び込んできたとは言い難い、遠目でやっと視認できる距離に、三雲くんを見つけたのだ。

 一瞬ためらって、でも、駆け出した。かなり距離はあったけれど、追いつこうと思えば追いつけそうだった。三雲くんの歩くペースは同い年の男子にしてはゆっくりで、その理由が完治してない怪我なんじゃないかと思いながら、でも幸運だとも可哀想とも思わないで、とにかく走った。風を切る。頬や耳が冷たい。吸い込んだ空気が次の瞬間に溶けて消える。代わりに吐く息は熱く、こんなに一生懸命に走ったのは、と考えて、遅刻しかけたときくらいだ、と身もふたもないことを考えつく。


「三雲くん、」


 橋のちょうど真ん中で、上ずった声をあげた。知らない人に掛ける声音だった。知ってる、人、だけど。立ち止まり、振り返った彼の視線を真正面から受け止める。そこで初めて、カッと首が熱くなったように感じた。実際は汗をかくほど全力疾走をしたあとだから、気のせいに違いない。


「はい」


 三雲くんの眼鏡の奥の双眸が少し見開いていた。驚いてるようだ。それもそうだ、この人、わたしの名前はおろか、顔も知らないに違いない。同期入隊した人の数は知らないけれど、攻撃手と銃手だけでも二十、三十はいたと思う。三雲くんとはしゃべったことも模擬戦をしたこともないから、認識されていたとは思えない。見ず知らずの奴に声を掛けられて警戒しないわけがない。


「あの、わたし、と言いまして……ボーダーの、三雲くんと同期の、C級です…」
「ああ」


 今この場で考えた自己紹介を述べると、思いのほか芳しい反応をもらえた。訓練か大規模侵攻のときに覚えられていたんだろうか、彼の目は知っている人を見るそれに変化していた。発覚した事実にさっきまでの気まずさはさっぱり払拭され、代わりにむくむくとむず痒い感情が湧いてくる。これは、何ていうんだろう。なんか、とても嬉しい。手袋をした手をぎゅうと握り込む。目線を三雲くんの右手辺りに落とし、思いついたことを口にする。


「あの、B級昇格おめでとうございます」
「え?はあ、ありがとうございます」
「お、応援してます。ランク戦頑張ってください」
「はい」


「……」当然ながら続かない会話に表情筋がじわじわと固まっていく。気まずさは呼ばれたと言わんばかりに顔を出し、我が物顔で目の前に居座っているようだ。考えなしに突撃したらこうなることくらいわかりきっていただろうに。けれど、不思議と後悔はなかった。


「…あ、試合、いつから出られるんですか?」
「次から出るつもりです」
「そう、ですか……」


 来週の水曜日だ。玉狛第二の隊長だものね、早い方がいい。「いや、すごいですね、ほんと。三雲くん。半年で正隊員で、チームの隊長なんて…」次に口をついたのは疑義の生じる台詞だった。言った事実に間違いはないはずなのに、わたしの心情とはちぐはぐだった。果たしてわたしはこの人のことを本当にすごいと褒め称えているのだろうか。まるで嫌味っぽい。「いや、僕は全然」三雲くんの謙遜にますます混乱する。わたしは一体、何がしたくて彼と話しているんだ?だって、三雲くんが隊長になれるほどすごい人だなんて露ほども思ってなかったのに。この人はわたしと同じなんだと、ついこないだまで信じて疑ってなかったのに。

 時間制限は五分、早ければ早いほど得点が高い。入隊初日の戦闘訓練、意気込んで臨んだわたしはタイムオーバーだった。惜しいとかいうレベルじゃなく、単純に手も足も出なかった。近界民は倒せず、代わりに身体を地面に打ち付ける。ほとんど痛くなかったけれど、周りが記録をアナウンスされる中自分だけ近界民を背にブースを出る惨めさは、脳天から串刺しにされたみたいに痛かった。理想と現実の落差に、ぺしゃんと心が潰れた瞬間だった。
 それは三雲くんも同じだと思っていた。彼もわたしと同じく、タイムオーバーで失格になった人だった。密かに仲間を探していたわたしは、自分よりあとにブースに入り、結果を出せずに出てきた彼に並々ならぬ親近感を覚えた。同じポンコツ、落ちこぼれ仲間がいた!あのときの安堵は、十四年生きてきた中で一番だった。
 三雲くんへ密かな仲間意識を持ちながら、けれど話しかけたことは一度もなかった。中学が違うので会うのは訓練のときくらいで、見つけたら、よかったと思う程度だった。彼の訓練の成績が気になりながらもビリ争いしてるんだと思われたくなくて、おそらく今回も奮ってないだろうと決めつけて、一向に伸びない成績と保持ポイントにヘコむ心の拠りどころにしていた。
 その三雲くんをここ最近見かけなくなり、もしかしたら辞めてしまったのではと不安になったこともあったけれど、まさかその逆、遥か彼方のB級に上がっていたなんて、一度も考えたことがなかった。


「三雲くんは同じだと思って、ました…」
「え?」
「あ、……わ、わたしと三雲くん、勝手に同じ感じなんだと思ってたから…」


 言って、すぐに失礼だと後悔する。同レベルの落ちこぼれだと軽んじたも同然だった。けれど取り繕った台詞は思い浮かばず、目を泳がせて口を噤むことしかできない。三雲くんを嫌な気持ちにさせた。そんなつもりじゃなかった。じゃあどんなつもりだったんだろう。


「あ。それは、はい…」
「え」
「いや、違ってたらすいません。入隊初日の仮想戦闘訓練、失格になってましたよね。ぼくもだったので、そういう意味かと…」
「そっ――」


 そうなの!叫びそうになるのを口を手で覆い堪える。三雲くんがわたしを知っていた。思いもかけない事実に夢のように浮き足立つ。頬が熱くなり、頷いてそのまま俯く。


「だから驚いてて…あ、でも、もう三雲くんが同じなんかじゃないって、わかってます……正隊員になれたから…」
「それは、その……」
「応援してます!あ、怪我、お大事に!」
「……ありがとうございます」


 感動とは裏腹にありきたりな台詞しか出てこない。こんなので三雲くんの意識に残ろうだなんておこがましい。「…じゃあ」案の定、三雲くんは戸惑ったように会釈をした。お別れだ。踵を返す彼に同じように別れのあいさつをやや上ずった声で返し、しかし一歩も動けず立ち尽くしていた。心臓だけが、違う生命を与えられたかのように、一人でばくばくとはしゃいでいた。

 今までわたしは、彼に対して、仲間意識や、もっと言えば傷の舐め合いをしているつもりだった。
 にもかかわらず、今この瞬間、唐突に思いついた衝動に息が詰まった。今更だ、でもそう思えば、この二週間胸の内で渦巻いていた気持ちの悪い何かに、理由をつけることができた。大規模侵攻で雨取さんの名前を呼ぶ声に頭が真っ白になったのも、記者会見で毅然とした応対をする彼を擦り切れるほど見返したのも、チームを組む彼が異常に遠くに感じたのも、簡単なことだった。その正体は、仲間意識よりもたちが悪かった。

 真っ赤な顔のまま息を吸う。二月の冷え切った空気が肺に届く前に溶ける。背中にかいた汗が、ひんやりと冷たい。


 ――三雲くんには、わたしと同じでいてほしかった。遠くに行かないでほしかった。


 でも無理な話だった。三雲くんはきっと、わたしの知らないところで頑張っているんだろう。だからどんどん遠くへ行くし、落ちこぼれのままではいてくれない。彼の頑張る理由は知る由もない。とにかく、わたしとは無関係なことだけが確かだった。
 本当に恥ずかしい。話したこともない、見てるだけだった三雲くんの、頑張る理由になりたいと思ったなんて、今更どの口が言えるだろう。



きっと捨てたほうが良いのでしょう(200525)
title:金星