教室を覗き込んで目が合うなりこちらに歩み寄ってきたにデジャブを感じたものの、こんなシチュエーションは何度も経験したことなので思い出そうとするだけ無駄だ。さっき来たときは、俺が気付いたときには既に教室に入ってきてたけど。がうちのクラスに来ることなんて日常茶飯事だけど一応覚えている。高校に入ってからはただの一度も、俺が小荒井以外の誰かといるときに話しかけてきたことがないことも、覚えている。

 にこにこと笑う彼女は俺の前の席に無断で座ると、ねえ、と、開口一番に俺の名前を呼んだ。「奥寺くん」


「今日一緒に帰ろー」
「…いいけど」


 何かと思えばそんなことか。そんなこと、携帯を使えば済むことだろうに、わざわざ来るほどのことじゃない。思いながら彼女を怪訝な目で見てしまうのは無意識だし、自覚しても罪悪感は湧いてこない。どうせのれんに腕押しで効果はない。が嫌がる気配もないのだ。「やったー」にこにこと目で薄く弧を描く彼女から距離をとるように背もたれに寄りかかって顎を引いた。
 何も、大したことのない理由で教室に来ただけでこんなことを思ってるんじゃない。最近のは人間じゃないみたいなのだ。いつもにこにこしてて負の感情が表に出ない。あんまりにそうだから実際のところこいつの中身は空っぽなんじゃないかと思うときがある。昔はちゃんと人間だったのにいつからこんな風になったんだろうか。べつにおまえのこと、嫌いじゃないし、腐れ縁だし情もあるけど、だからこそ醸す雰囲気が異様に思えてしまう。小荒井と二人のときにそんなことを話したら概ね同意を得られた。能天気なあいつにしては珍しく思うところがあるみたいで、それは「だから」が理由だってことは、わかっている。小荒井はこんなでも愛想をつかせることなくすきらしい。口を挟む気はないから本人に確認したことはないけれど、なんとなくずっと確信している。

 ちなみに摩子さんの目には、がちゃんと人間に映っているらしい。


「ねえ奥寺くんは隠し事してるね?」
「は?」


 ぼんやりと焦点をずらしクラス風景を眺めていたら、そんな突拍子もない質問を投げかけられた。数秒ぶりに視線を合わせると俺をじっと見つめる丸い目が、珍しく何かを見透かしてるみたいだった。とはいっても、にわざわざ意識して隠してることなんて、パッと思いつかないのだけれど。


「小荒井くんも奥寺くんも何か隠してるでしょ」
「小荒井は知らないけど、べつに隠してないよ」
「うそ。水臭いの」


 肩をすくめたと思ったら、目を伏せる。のこんなしおらしい挙動は久しぶりに見た。しかし湧いてきてもいいはずの感動は動く気配も見せず、代わりに変わらずある彼女への疑念が居座り続けていた。すぐに気の抜けた笑みを浮かべたって、それは変わらない。


「かくいうわたしも人のこと言えないけど」


「……」大して人の機微に敏くない俺が言っても説得力はないのかもしれないけど、の底は特にわからないと思う。こいつと話してると海を漂っている気分になる。溺れたりしないで、でもほっとくと深海とかに連れてかれるんじゃないか。べつに、腐れ縁の仲として底まで行ってやってもいいけど、そのときは間違いなく小荒井も道連れにしてやる腹づもりだ。
 ……あ、小荒井といえば。


、このあと小荒井のとこ行くか?」
「行くよー」
「じゃあこれあいつに返しといて」


 机の脇に掛けていた袋から取り出したのはサッカーボールだ。先週小荒井たちと昼休みにミニゲームをやってから借りっぱなしにしていたのだ。同じ袋の中に入っているもう一つのボールが俺のだけれど、同じブランドだしだいたい同じときに使ってるから、この数年で入れ替わった回数がゼロとは言い切れない。とにかく便宜上現在の所有者は、こうだというだけだった。
 二つ返事で頷いたへ軽く投げてパスをする。両手でキャッチした彼女とそれがどうもミスマッチに見えて仕方ないのは、が一度もサッカーに挑戦したことがないからだろう。小学生の頃から小荒井が粘り強く声をかけても、こいつがフィールドの線を越えることはついぞなかった。外で俺たちが遊んでいるのを眺めていたがいつも満足そうに笑っていたことは覚えてる。そして俺たちがボーダーに入った頃から頻度は格段に下がって、高校に入ってからは、まだ一度も見ていない。


「わたし、奥寺くんだけ幸せになるなんて許しがたいと思ってるの」


 変わらない声のトーンで呟かれたセリフに思わず怪訝な顔をしてしまう。今日はやけに突っかかってくるな。しかも内容が物騒だ。怒ってんのか、珍しい。
 ほんとに珍しいな、こいつがこんな攻撃的なこと言うなんてなかなかない。サッカーボールに俯いて表情は見えないけれど漂う雰囲気がどこかいつもと違って、ピリッとした鋭利な空気で皮膚を裂かれそうだ。それに対して感動さえ覚える。本来ならば理不尽な主張に憤ったり傷ついたりするべきなのかもしれないけれど、それすら湧かず感慨さえ覚える自分は、海に漂いすぎて感覚が麻痺したのかもしれない、と思った。


「…俺はおまえが幸せになっても怒んないけど」
「そんなこと言われたいんじゃないよー」


 彼女が顔をパッと上げた途端、肩の力が抜けた。の表情はにこにこと笑顔を浮かべて、ちっとも怒ってなんかいなかったのだ。なんだ。べつに、怒らせたかったわけじゃないけど。

 じゃあ何て言ってほしかったのか。そもそもおまえを置いて俺だけが幸せになったらどう許さないつもりなのか。もしそうなったらおまえは人間に戻るんじゃないかって思ったのは、勘違いだろうか。わからないけれど、少なくともと心中する気は今のところない。



だけどさよならはできない(170114)
title:金星