呼ばれた声に首だけで振り返ればがそばで立っていた。机と机の通路に身体を滑り込ませ俺を見下ろしているそいつは同時ににこにこと笑顔を浮かべていて、いいことでもあったのかなと、表情だけを根拠にそんなことを思わせた。実際のとこは、の感情表現の薄さを不気味がる奥寺に同意するんだけども。
「どした?」俺が一人でいるところを狙ったのか、はさっきまでC組から来て一緒にだべってた奴らが綺麗に掃けたタイミングで声をかけてきた。べつに太一たちが苦手なわけではないはずだけど、俺や奥寺がクラスメイトかつボーダー仲間の話をしても悪い反応をしないのに、こいつが同じクラスの奴らと積極的に話す姿を見たことがなかった。おかげでこないだは、に嫌われてるかもってしょげる佐鳥にフォローをいれるなんて慣れないことをしてしまったくらいだ。そのことをに言うと「悪いことしたなあ」とあんまり悪びれる様子もなく肩をすくめていた。


「これ」


 言いながら、それまで背中に回していた両手を前にまっすぐ突き出した。その手には白と黒のボールが。「…ああ!」何隠してんのかと思ったら、俺のサッカーボールだ。なんてことない、でも納得できる用件だ。受け取る前に机の脇に提げっぱなしだった黒い袋をはずす。


「サンキュー。そーだそーだすっかり忘れてた」
「んーん。ついでだったから大丈夫だよ」
「そ?」


 これこそなんてことないみたいに変な相槌を打って、彼女の両手から白黒のそれを受け取る。ボール袋にしまって口を閉じればあっという間に終了だ。元の位置に戻すとやっぱり存在感があるから、授業中蹴っちゃいそうだ。
 はそのまま俺の前から消えることなく隣の空いた席に腰を下ろし、はあーとのん気に息をついた。例えるなら温泉に入ったときみたいなリラックス具合。背伸びもする始末だ。つられて肩の力が抜けるのも無理ないだろう。


「どうしたん?」
「奥寺くんに喧嘩売ってきちゃった」
「は?!」


 思わずデカイ声を出してしまったが周りの奴らが特に気にすることはなかった、と思う。あんまり気を配れなかった。とにかく俺は目の前のの発言にとんでもなく仰天して、一瞬にして色々なことが頭の中を駆け巡った。本当にいろんなことが。思い出やら想像やらがズドドドといった勢いで湧いてきて背中には冷や汗が伝ったほどだ。当の本人はすっきりしたみたいな顔してるけど、残念ながら腐れ縁の奥寺との二人に何かがあることが、俺にとっていいことだった試しがない。それこそ色々な意味で。「何があったんだよ?」身を乗り出して問うとそいつは楽しそうににやにやしながら口を両手で覆い隠して、「買ってくれなかったから喧嘩はしてないよ」とだけ返した。いや、そうじゃなくて!


「なんで、が怒ったの?」
「心配しなくて大丈夫だよ」
「心配してるっつうか…」


 俺の動揺もなんのそのとにこにこ受け流すにもどかしさを覚えつつ、上手い台詞が浮かばない俺はあーだとかうーだとか日本語にならない言葉を発声する。こういうとき摩子さんなら上手く聞き出すんだろなあ……東さんとかも上手そう、やっぱ。、東さん知らないけど。せっかくだし会わせてみたいと思うけどどう頑張っても難しいんだよなあ。東さんとこ押しかけるか、来てくんねーかなあ。若干の現実逃避に出掛けかけるとはいよいよ楽しそうに背筋を丸くして目を細めた。


「小荒井くんやさしいー」
「いや、べつに優しいとかでもなくて…」


 なんかいい方に勘違いされた。べつに俺、おまえらが心配だからなんて優しさで聞きたがってるんじゃないんだよ。ただ知りたいだけで、そこに他意は、申し訳ないけど、あるんだなあ、これが。「じゃあ」首をひねったが何か思いついたように背筋を伸ばす。


「小荒井くんかっこいい?」


 丸い目が俺を覗き込んでいた。ドッと動く心臓。


「おっ……うーん…」
「ちがう?」
「んー…ここで喜んじゃいけない気がした」


 腕を組んで考える。ちがうけど、俺の返しも何か変だな。昔だったら手放しで結構喜んでたけど、そもそもこの流れじゃおかしいってことくらい俺にもわかるぞ。よって、喜べない。といっても、しっかり動揺してるからもしかしたらの思惑通りなのかもしれない。


「本心だよ」
は奥寺にもよく言うじゃんか、…いやダメなわけじゃないけど」


 ミスった、ヤキモチってバレるかも。苦い顔でを見遣るも、「奥寺くんもかっこいいよね」ちょっとはにかんだように笑ってるだけだった。さっきまで変な奴だったのが、今だけ普通の女の子に見えた。それで俺はなんだか、あっさりと、虚しい気持ちになるのだ。すっげえ呆気なく。ああほら、こっちが正真正銘の本心だろ。


「…あと摩子さんにも言うよな。昔から」


 すぐに話を変えたくて別の名前を出した。俺たちと近しい人の名前だ。も大好きな人だからきっと食いつくと思った。

 けれどそいつは誰かから借りたような上手な笑顔を作ったと思ったら、へにゃりと、空気が抜けてしまったみたいに頬を緩ませたのだった。


「だって変われないもんね」
「ん?」


 純粋に意味がわからず首をかしげると、唐突に、別の疑問が湧いてきた。
 さあ、いつからだろう。の表情の変化が少ないと思うようになったのは。


「わたし、今以上前に進めないんだもの」


 泣きそうな声だったはずなのに目の前にいるの顔は依然笑っていて、やっぱり俺には上手い台詞なんて思いつかなかった。いよいよ感じるべき薄気味悪さに襲われることもなく、今のには伝えられない台詞をひたすら頭の中で反芻する。もうずっとだ。


「あ!奥寺くんに聞こうと思ってたの忘れてた」
「ん?」


 突然思いついたように席を立ち上がったを目で追う。


「小荒井くんは?今日三人で帰ろうよ」
「…おー」


 やったね、無邪気に喜ぶがスカートを翻し教室を出て行くのをぼんやりと眺める。身体中から力が抜けていくのを漠然と感じながら、頭を抱えたくなる衝動から一歩距離を置いていた。

 進めないのは俺もだ、と思った。意気地なしの俺をは知らない。知ってもきっとかっこいいって言ってのけそうでどうしようもなくなる。今のはどこか変なのだ。



あなたはまやかしなの(170114)
title:金星