やわらかい檻のこと」>>



「もし暇だったら」とのお誘いに向かった作戦室では、すでにテーブルの上にチェス盤が広げられ、まさに準備万端といった雰囲気だった。詳しいことは聞かずとも暇つぶしの手段を理解したわたしは、いらっしゃいとシャッターを開けて出迎えてくれた一彰にお邪魔しますと返して、まっすぐ一番近いイスに着席する。聞いていた通り、一彰の他にチームメイトはいないらしい。彼の荷物がソファの上に見えるだけだ。
 正面に座った一彰が蔵内くんや樫尾くんや羽矢さんの行き先を詳しく説明するのを、うんうんと相槌を打ちながら聞く。今日のランク戦は終わったのだから一彰だってすぐ帰ってもよかっただろうに、そんなにチェスをしたかったのかな。なんて頭のネジを緩めて、隙のない幼なじみに可愛げを見出す。現実の彼は、チェスのときだってランク戦のときだって、戦法に可愛げなんてものはひとつもないのだけれど。


「さあ、お先にどうぞ」


 左の手のひらをひらりと返してみせるのを一瞥し、頷く。いつからか、手番は決まってわたしが先手になっていた。知る限りかなりの腕前である一彰は、できる範囲の温情として有利と言われるそれを譲ってくれるのだ。とはいえ、功を奏したことは一度もないのだけれど。

 一戦目を光の速さで負けると、どちらからともなく駒を元の位置に戻し始めた。あまりに手応えがなさすぎただろう。ここまでくると負けたことに悔しさを感じることはなく、申し訳なさに肩をすぼめるばかりだ。こんな奴が相手でごめん。謝ると反応に困らせてしまうので、最近は相手を賞賛するようにしている。一彰は微笑んで悪い気などしていないみたいだし、わたしもプライドが傷つくこともなくて、平和だ。
 一彰はトリオン体に換装したままだったので、白い手袋で白い駒を持つと、一瞬、境界線がわからなくなる。本当は手番が先の人が白を使うらしいけれど、なんとなく一彰を差し置いて白い駒を選ぶ自信がなくて、毎回黒を使わせてもらっている。黒のほうが強そうというイメージにあやかりたい気もするし、黒を使う一彰に勝てるイメージができないのもあった。
 対戦中はほとんど雑談ができないので、間の休憩は貴重だ。隊のメンバーでつけ始めたという勝敗記録を見せてもらい、蔵内くんの上達ぶりに感心したり、樫尾くんの健闘や羽矢さんの爆発力にすごいすごいと盛り上がっていた。チェスは一彰が持ち込んだゲームらしいけれど、今やチーム全体で流行しているのが、いいなあと思う。一彰のいないところでみんなが練習していることを、本人も知っていた。
 下手だけど、チェス自体は面白くてすきだからわたしも練習したいな。思いつつ、一彰としか対戦したことがないので当てがない。チームメイトに持ちかけたら付き合ってくれるだろうか。こういうのは、あんまり興味なさそうだ。綺麗に並べ終えた自陣の駒を見下ろしながら、ううんと腕を組む。


「わたしのチームで流行ったゲーム、ババ抜きくらいだからなあ」
「へえ、いいね。楽しそう」


 一彰の芳しい反応に、楽しいよと背筋を伸ばす。もうチーム内のブームは去ってしまったけれど、一時期は隙あらばテーブルを囲んでカードを引き合うほど熱中していた。夜まで作戦室にこもって白熱した闘いを繰り広げたこともあったし、朝一番に来たらテーブルにトランプが配られた状態で置いてあって一人で大笑いしたこともある。始まりはたしか、ポーカーフェイスを身につけようという趣旨だった気がするけれど、あれで身についたのはチーム内の仲の良さだったと思う。


「すごく白熱するよ。今度トランプ持ってくるから一緒にやろうよ」
「うん」


 一彰は頷いたあと、何かに気がついたようにぽそっと「でも二人じゃ面白くないか」と呟いた。「たしかに」わたしも反射で返す。最後は二人の戦いになるけれど、最初からそれはつまらないだろう。始まる前から捨てられたカードのほうが多くなってしまうのもよくない。


「じゃあ、犬飼とか誘おう」


 なので思いついた友人の名前を挙げる。一彰との共通の友達だ。うちのチームメイトと一彰はそこまで交流がないから、わたしの口から出せるのは犬飼だけだった。あとは一彰のほうで、蔵内くんとか神田くんとか、友達に声をかけてもらえたらちょうどいい人数が集まるんじゃないかな。
 犬飼といえば、誕生日のお祝いどうしよう。


「スミくんか。そうだね」


 口角を上げた彼を見上げる。それから、すぐにチェス盤へと落とす。
 今、わたしは好奇心と淑やかの間で揺れ動いている。一彰に犬飼の誕生日の話をすることで、どんな反応が得られるだろうと気になったのだ。
 でも結局、それを口にすることはしなかった。だって前に痛い目を見たというのに、まさか同じことはできない。たとえ、一彰の雰囲気に、頬を軽く摘ままれたほどの違和感を覚えたとしても、どうせ返ってくるのは十全な否定なのだ。その度傷つくのは、ほんとうに愚かなことだ。
 つくづく呆れてしまう。わたしは一彰に、これ以上何を求めているんだろう。図々しくてびっくりだ。心を動かしてもらいたいだなんて、一彰にとっての何者でもないのに、いったいどんな権利の上に立ったつもりでいるのだろう。


「まあ、誰を誘うかはあとで考えるとして。もう一回やろう」
「うん。……でも一彰、弱いわたしの相手してて楽しい?」
「楽しいよ」


 一彰がためらうことなく肯定してくれるだけでこんなにも安堵するのに。これ以上を求めるなんて、大変おこがましいことに違いない。


とするのは何でも楽しいよ」


 やわらかく目を細めて笑う一彰を、ひだまりとか羽毛とか、あたたかいものにたとえて、いつまでも彼がわたしを見限りませんようにと祈る。一彰とする約束は何でも守る。気を引こうなんて馬鹿なことはしない。ずるい奴かもしれないなんて、疑われないようにしないと。一彰のそばにいられなくなったら、全部がおしまいだもの。



いつでも苦しくなれるよ(210131)
title:金星