隠岐くんは人を困らせるのが趣味なんだと思っていた。わたしが困った顔をすると、隠岐くんは決まって笑うから。


 そのときわたしは、訓練室の壁伝いに置かれた長椅子に一人で座っていた。最近知り合った夏目ちゃんから預かったネコを膝に乗せ、C級の訓練の様子を眺めていた。本部で飼い始めたともっぱらの噂であるネコは初めての太ももにも文句ひとつなく、まさしく借りてきたホニャララと言わんばかりにおとなしく丸まっている。わたしがどんな人間かも知らないだろうに、度胸があることだ。それとも一度背中を撫でられただけでその人の気というかオーラというか、重要な何かがわかるのだろうか。とにかく、どこかに行かれないようむやみに構うのをやめたわたしは、ネコとイスとしりとりするみたいに、一つの物体となるべく努めていた。


「お、カモがネギしょってる」


 だのに、びくっと身体が反応してしまう。一体となった物体はあえなく三つに分かれてしまう。同時にネコも飛び起きてしまったものの、どこかへ行ってしまうことなく膝の上に収まり続けていた。本当に肝の座ったネコなんだ。情けないわたしとは大違い。
 やってきた隠岐くんが、すぐ隣で立ち止まる。背筋を曲げて膝の上のネコを覗き込んでいるのが影の動きでわかる。わたしはといえば、俯いたままの姿勢から少しも動くことができず、毛並みを一本一本整えるように、ネコの背中を凝視していた。急に胸を圧迫されたみたいに浅い呼吸になり、加えて音を立てることは許されないという強迫観念が、満足に息をすることを封じていた。


「前見たときも思ったけど、絶妙な顔してんねんな」


 トントンと耳珠を叩くような声と、隣に座った気配にいよいよ息を止める。隠岐くんの近くで息を吸ってはいけない気持ちになるのは、ひとえに彼が得体のしれない生き物だからだ。隠岐くんとコミュニケーションを取るのは非常に気力を使う。いっぱいいっぱいになって、彼としゃべってるときの自分が何を考えていたのか、あとで思い返そうとしても靄がかかったように不明瞭でちっともできない。同時に、隠岐くんが何を考えていたのかもわからないから、わたしたちの交流に意味があるのか甚だ疑問だ。
 三十秒耐えて、苦しくなったので息を吸い込む。トリオン体でもこの程度だった。隠岐くんに見つからないように少しずつ吸う。結局我慢できないのだから最初から止めなきゃいいのに、馬鹿みたいに毎回止めてしまう。


さん」


 首を傾げ覗き込む。こういうときは、やたらに顔を動かしてはいけない。学習した。
 一度だけ、同じような状況になったとき、隠岐くんのサンバイザーに額をぶつけてしまったことがある。呼びかけられて、咄嗟に顔を上げたら、下からコンと当たってしまった。血の気が一斉に引いたのは言うまでもない。一方隠岐くんは、「おっ」と軽く仰け反ったあと、サンバイザーを元に戻しながら「すまんなあ」と笑っただけだった。そのあとのことは覚えてない。

 隠岐くんとの距離を慎重に測りながら、目と首の角度を少し変えるだけで彼を見上げる。ほぼ予想通りの位置に彼の顔はあり、同時に、今視界に映る何事にも興味を示していない目と合う。陰のかかった目元は人相を暗く見せる。それが隠岐くんの本性だとしたら、なんて話が早いんだろう。


「すまんなあ」
「……え」


 唐突に零れた謝罪に、反応しなければいけない気がしてしまった。言葉通り申し訳なさそうに苦笑いする彼が何を意図したのかさっぱりわからなかった。謝るのは、いつもわたしのほうなのに。いつのまにか握りしめた爪先が手のひらに食い込んでいた。痛くなるかもしれないと解くと、力を入れてるつもりがないのに指先がぴくぴくと勝手に動いて気味が悪かった。


「カモとかネギやなくて、さんとネコやんなあ」


 もう隠岐くんは申し訳なさそうにしていなかった。とろっと笑った顔でいつもみたいにわたしを困らせる。隠岐くんがそういう風に笑うと、一緒にとろけてしまいそうになる。きっと気を抜いたら一気にいってしまうだろう。わたしは毎回、自分が固形を保てていることがものすごく褒められてしかるべきことのように思う。

 隠岐くんという生き物は、下手くそな嘘を優しい顔で吐いて、絶対に本当のことは言ってくれない。誰も許してない距離まで近寄るくせに、こちらから詰めると離れていく。結局隠岐くん自身のことは何も教えてくれない。今日の天気がいいとか、訓練の一位が誰だったとか、食堂の新メニューが出たとか、そんなことばかり知ってしまう。隠岐くんの調子はどうかとか、訓練の成績はどうだったかとか、すきな食べ物は何なのかとか、知りたいことはたくさんあるのに、隠岐くんと話し終わったあと、何も聞けていないことに気が付く。毎回、知らない人としゃべっていたかのような、ぽつんと一人取り残される孤独に見舞われるのだ。

 今も隠岐くんの言葉の意味はわからない。いつもと同じだから、このあと、隠岐くんが何事もなく立ち去り、一人残される虚しい自分がいともたやすく想像できた。一日で一番ハードな時間を過ごし、手元に残ったちっぽけな名残を後生大事に抱えるのだ。そんな生活から早く脱却したいと、思わないわけがない。


「お、隠岐くん」
「んー?」
「カモとかネギとか、どういう意味なのかなって、思って……」


 解放されたい。隠岐くんの目に触れたくない。隠岐くんを目で追いたくない。言葉を発したくない。声を聞きたくない。考えたくない。優しくされたくない。隠岐孝二くんという不安と空虚を無尽蔵に与え続ける生き物から逃げたい。
「んー……」依然隣に居座る隠岐くんは考えるそぶりで唸った。少しでも進化したくて問いかけたけれど、果たして意味はあったのか。だって隠岐くんだ。いつもはぐらかすみたいに嘘をついて、絶対に本当のことを言ってくれない。それでわたしを困らせて笑ってる、悪魔みたいな人なのだ。


さんと話せて嬉しいなあって意味」


 呪文のように紡がれた言葉が、脳に正しく届くより先に、隠岐くんの手がわたしの膝へと伸びた。グローブをはめた右手でネコの背中を撫でる。ネコ越しに、ほんの少し、目をつむっていたらわからない程度に、太ももに力を感じる。さっきよりも近くなった彼の気配に、思考はいよいよ真っ赤なペンキで塗りたくられる。

 隠岐くんは悪魔だ。わたしが苦しいことをよしとする。
 隠岐くんは天使だ。わたしを一等心地よくする。
 隠岐くんは死神だ。わたしをやすやすと弄ぶ。
 隠岐くんは神さまだ。わたしから一番遠い存在だ。


「隠岐くんはまるで人じゃないみたい」


 コントロールの効かなくなった意思は見えない強敵と戦うかのように手足をばたつかせる。せめてもの反抗といわんばかりの苦し紛れな言葉に、隠岐くんはそれすら微笑む。


「そんなこと言うてさん。俺がただの人間やってわかったら途端に飽きるくせに」


 隠岐くんは遠い遠い生き物だ。こんなに近くにいても、遠い遠い。もしも全部がうそだったとして、隠岐くんがただの人間だったなら、それでもわたし、あなたのこと何も知らない。



ぐつぐつメリーゴーランド(200920)
title:金星