きっと絵馬くんはこんなわたしのこと、一生すきになってはくれないだろう。君はわたしの気持ちに気付かないまま、呆れながら何度も手を差し伸べてくれるのだ。それは、なんとも最高なことだ。


 その日はボーダーの入隊式で、会場に集まった新入隊員の仲間たちを内心うきうきしながら眺めていた。知り合いは一人もいなかったけれど、新しい友達ができると思うと不安より期待が勝って、自己紹介はいつやるんだろうなんて浮足立っていた。
 式が始まり忍田本部長のあいさつが終わると、オリエンテーションとしてポジションごとに訓練場へ移動する段になった。狙撃手志望は自分を含めて九人いて、みんな同年代っぽいのがよかった。きっとすぐ友達になれるだろう。ボーダーへの憧れと新しい交友関係の構築に胸を躍らせながら、みんなと揃って会場を出た、まではよかった。

 まだまだ目新しい白い通路を嵐山隊の佐鳥先輩の案内のもと移動していたはずが、取り残されてしまったのだ。突如消えた人の気配に、思わず、えっと声が出た。反響はしない。通路にはさっきまでいたはずの新入隊員はおろか正隊員の姿も見えず、完全に一人ぼっちになっていた。愕然としたまま、あたりを見回す。先導がいなくなった途端、ボーダーの基地は素知らぬ振りでわたしを拒絶し、近未来的な画一された壁に方向感覚までも奪われ、迷路に迷い込んだかのように、いわゆる、「ここどこ?」状態に陥ってしまった。オリエンテーションの真っ最中だという認識が焦りを加速させ右往左往してしまう。まずい、まずい。狙撃手の訓練場、ここから階移動があるのかさえわからない。初めて来た施設に馴染みなど当然皆無で、方角の見当もつかない。とにかく広いことだけはわかっているせいでますます不安に駆られてしまう。
 なんとかフロアマップを見つけ目的地は十階下だとわかったものの、今度は階段が見つからない。マップで確認したのに思った場所になかったときはさすがに、なんで?!と泣きそうだった。どうしよう、このまま合流できなくて、途中でいなくなったなんて思われたら、この先ボーダー隊員としてやっていけるのだろうか。もし合格が取り消しになったらどうしよう。どんどん黒い不安が身体中を占めていく。心臓からずぶずぶと吸い込まれて、身体の一番外側だけが置いてかれるようだ。あまりの心細さに、目の奥が、ほんの少し熱くなる。

 ハッ、と顔を上げる。足音が聞こえたのだ。反射的に振り返る。すぐ、背後の曲がり角から男子が現れた。
 黒い隊服に身を包んだその人は、自分をガン見する存在に気付くなりギョッと動揺を見せたようだった。そのまま眉をひそめ、警戒するようにさりげなく通路の壁に寄りながら歩いてくる人を、わたしはひたすら凝視していた。彼の考えていることは多分、他の人であれば簡単に察することができたのだろうけど、このときのわたしにそんな余裕や配慮があるわけもなく、同い歳くらいの男子、自分と違う服だからB級以上の正隊員で間違いない、ということだけを認識したら、天の救けだ!と飛び跳ねんばかりだった。もちろん躊躇うことなく声をかけた。


「あの!」
「、……なに」


「狙撃手の訓練場ってどこですか?!」彼は気付いてなかったと思うけど、言いながら半泣きだった。情けないとか早く行かないととかなんでこんなわかりにくい構造してるんだとか、不安と焦りでちっとも冷静じゃなく、とにかく目の前の男の子に全身全霊で縋りついた。もちろん物理的にではなく、精神的な例えだ。きっとわたしが本当に縋りついていたら、さすがに背を向けられていたに違いない。幸いにも彼との距離はしっかり三メートルは空いていたので、眉根を寄せあからさまに「え」と引いた顔をされるだけで済んだ。


「この下だけど」
「階段が見つからなくて……」
「あっち――」


 困惑した表情を変えることなく右の方向を指差す。一瞬、何か躊躇うように口を閉じ、それからちらっとこちらをうかがう。


「案内いる?」
「お、お願いします〜…!」


「……うん」ボーダーの人は親切だ!神と崇めたいくらいありがたい。感動に打ち震えるまま誠心誠意お礼を述べ、早速歩き出した彼のあとを追う。道中、彼は一言もしゃべることなく、わたしも案内してもらっている身でペラペラしゃべる図太さはなかったので、ひたすら沈黙を守り続けていた。
 ついぞ一度も足を止めることなく辿り着いた訓練場の前でも、その人は、じゃ、と言うだけで、さっさと踵を返してしまった。「ありがとうございました……」名前を聞く隙もなく半ば呆気にとられたものの、彼の容姿を目に焼き付けるだけして、訓練場に駆け込みオリエンテーション中の新入隊員に混ざったのだった。



◇◇



 彼が絵馬ユズルくんというB級部隊の狙撃手だと知ったのはそれからすぐのことだった。調べたら簡単にわかった。同い年の中学二年生で、とても優秀な隊員なんだそうだ。なるほど、だから訓練場にも迷わず行けたのか。それにあの寡黙な態度も、職人然としているといわれれば納得だ。
 迷子になって途方に暮れていたとき、いっぱいいっぱいで大変焦っていたものだから、第三者のような見方はとてもできなかった。けれど、絵馬くんと知り合って話すようになってからも、ふとしたときに思い出しては、あのときは本当に助かったなあと耽っていた。どこからかいぬのおまわりさんの歌が耳に入ってきたときは、そんな感じだ、なんて一人で笑うこともあった。もちろん絵馬くんは困りこそすれ狼狽えてはいなかったし、わたしも本気で泣いてはいなかった。けれど心境はまさしくそれで、気恥ずかしさと愉快さがふつふつと湧き上がって、お風呂の中で歌ったり、布団の中でにやにや笑ったりしていた。

 そんなこんなで絵馬くんとは合同訓練での数少ないエンカウントで親睦を深めて今に至るのだけれど、実はいまいち手応えがないのが現状だった。何度声をかけても、彼はいい顔も悪い顔もしてくれないのだ。聞けば答えてくれるものの、自発的に何かを言うことはなく、そっけない態度が常だった。とはいっても、絵馬くんの応対としては普通のことらしいのだけれど。
 彼の訓練の出席率に危機感を覚えていたのも今は昔、もはや強者の余裕とすら思えているので気にはならない。今日は当真先輩と一緒に参加していたので、終わりがけに駆け寄って雑談に混ぜてもらっていた。


「え?絵馬くんの師匠って当真先輩じゃないの?」


 個人の射撃スペースで隣同士に座る二人を見下ろしながら、思わず声をあげてしまう。当真先輩の師匠らしい発言に絵馬くんが苦言を呈したことがきっかけだった。そうなんだ、知り合った当初から二人は親しそうだったから、てっきり師弟なんだとばかり。「ちがうよ」絵馬くんが珍しくはっきり否定する。そんな様子にも目を丸くしてしまう。当真先輩も絵馬くんを見下ろすだけで、異を唱える気はなさそうだ。
 二人を交互に見る。逡巡して、好奇心が勝ったので、口を開く。


「じゃあ、だれが師匠なの?」
「言ってもわからないよ。もうボーダー辞めたから」


 絵馬くんはそれきり口を閉ざしてしまった。突然漂い始めたのっぴきならない空気に、思わず息をのむ。ボーダーを辞めた師匠。想像もつかない容姿に、視界が黒い靄で埋め尽くされる。少なくとも、絵馬くんにとってあまり話したくない話題だというのはわかった。そんな話を軽率に振ってしまったことに罪悪感を覚える。失敗した。彼との壁が、一層厚みを増すようだった。
「今度同期の千佳ちゃんと出穂ちゃんとで狙撃のコツを教わりたい」言おうとしてずっと言えてないことだった。絵馬くんのことだから知らない女子に囲まれたら嫌な顔をするだろうなと考えて尻込みしていた。悲しいことに、わたしがいるからといって彼の心持ちが前向きになる想像はできない。ましてや絵馬くんにとって取るに足らない人間が、「絵馬くんの弟子になりたい」などと軽々しく言ってはいけないのだ。
 気付くと俯いていた。射撃スペースに置かれた絵馬くんのカバンだけが見えている。か細く息を吐くと、喉のあたりから体温が奪われていく感覚がした。

 実はわたし、これまで自分のことを爽やかなほうの人間だと自負していた。誰とでもそれなりに友好的に接せるし、あんまり執着してるものとかないから、なんとなく、ずっと鼻歌を歌って生きていけるたちだと思っていた。それが勘違いだったと、絵馬くんを知ってから知った。
 本当のわたしは、仲良くなりたい男の子と上手に距離を縮められないし、そのくせずっとしつこい。こんな自分のことはすきじゃなかった。絵馬くんだってうんざりしているかもしれない。絵馬くんが一緒にいたいと思うような人になりたいのに、真逆のことをしている気がする。絵馬くんはもっとさらっとした人がすきだと思う。だからどうにか、からっと乾いた風にさらわれて、まったく別の、真に爽やかな人間に生まれ変われないだろうか、なんて考えている。

 当然、考えただけで改善されるはずもなく、初めて会ってから一ヶ月経った今でもしつこく絵馬くんにつきまとっている。今日は同期の千佳ちゃんのB級ランク戦の初陣なので、観覧席で応援するつもりだ。ラウンジで時間を潰してから、三十分以上余裕を持って向かう。観覧ブースは行ったことがないけれど、ランク戦はみんなが注目するらしいから、移動の流れができているだろう。あまり心配していなかった。


「……あれ」


 しかしなぜか思っていた場所に観覧ブースがない。北も南もわからないけど、この階のこの方向っぽい気がしたのに。もしや階を間違えたのかな。最近方向感覚にも自信がなくていけない。試合開始時間よりだいぶ早いせいか、隊員の流れも目視できなかった。
 時間はあるから大丈夫だけど、出穂ちゃんと一緒に行けばよかったな……。現地集合なんて言わなければよかった。昨日の発言に後悔が募り気分がどんどん沈んでいく。どうしようかなあ、とりあえずこの階をぐるぐる回ってみようかなあ。一人腕を組み、左へ首をもたげる。


「また迷ったの?」


 背後からの声に振り向くと、絵馬くんがいた。今日初めて顔を見た彼だ。一メートルほどの間を空け、影浦隊の隊服姿で、ジュースの缶を持って無気力そうな瞳でわたしを見つめていた。
 目が合った途端、初めて出会った日の情景がフラッシュバックして、すぐに消える。口を開いたけれど、変なことを言いそうになって咄嗟に噤んだ。……絵馬くん。なんだか、ね、恥ずかしいのか喜びたいのか、わからないや。
 力が抜けたようにこくんと頷く。絵馬くんは、やっぱりとは言わなかったけれど、ほとんど同じ意味で肩の力を抜いた。


「なんでこっちに曲がるんだろうと思ったら……観覧席は反対だよ」
「……」


 もしかして、絵馬くんはわたしを見かねて追ってきてくれたのだろうか。そんな言い草だ。ラウンジにはいなかったと思うけど、いつから見られてたんだろう。缶ジュース片手にわたしのあとを追う絵馬くんを想像して湧き上がる感情は、わたしたちに似た童謡に気付いたときとまるでおんなじで、場違いにも笑ってしまいそうだった。
 やっぱり嬉しい。絵馬くんが助けてくれるのは嬉しいな。気まぐれでもいいから、絵馬くんにずっと助けてもらいたいよ。情けないのに幸せで、力なく笑みを浮かべる。二歩近づいて隣に並ぶと、絵馬くんは何も言わず右へ方向転換した。やっぱり、会場まで案内してくれるのだ。本人を目の前にあの歌を歌ってみたい衝動を抑え、努めて明るい声で問いかける。


「絵馬くんも観戦しに行くの?」
「行かない。が明後日のほうに行かないか見てただけ」


 いつもの絵馬くんらしい、すんと落ち着いた声で答える。進行方向を真っ直ぐ見つめて歩く横顔を盗み見て、同じ方向に向き直す。平静を努めるので精一杯で、変に上がった口角のままなんとか続ける。


「絵馬くんも試合あるって言ってたもんね」
「うん」
「こっちが終わったら見に行っていい?」
「……勝手にすれば」


 そっけない返答でも傷つきはしない。絵馬くんはいつも本心を言っているんだろう、そんなところが、話していて楽しくて、すきだった。


「会場、迷っても連れて行ってあげられないから」


 うん、と頷く。このときは知らなかったけど、複数の観覧ブースは隣接しているので、迷うはずがなかった。わかっていて冗談を言った、絵馬くんは冷たくなんてないのに、きっと優しい以上にもならない。叶うことはないんだろうな。一生の恋だなんて言ったら最後、一笑に付されて散っていただろうから、誰にも言わなくてよかった。



いつまでたっても花言葉(211024)
title:金星