充くんがテレビに出るのが嬉しくて、お母さんに頼んで毎回録画をしてもらっている。画面の向こうの充くんはわたしとしゃべってるときよりほんの少しだけ愛想があって、インタビュアーさんの質問に前向きに答えているのが、なんだか違う人を見てるみたいで面白かった。充くんにイエス・アイ・ドゥー的な、はたまたその逆みたいな、簡素な返事以外の語彙があったことを、わたしは全然知らない人としゃべる彼を見て久しぶりに思い出したのだ。でもよく考えたら充くんはそこそこ頭がいいから当然だった。つるんと滑る髪の毛みたいに取っ掛かりのないお人柄だけど、友達も多いし、信頼も厚い。いやねえ、わたしだって充くんのこと信頼してますよ。友達ではないかもしれないけれど。
 よく言うことだけど、わたしは充くんと血が繋がっていたかった。「うん」「ううん」「そうだね」「違うよ」にミックスカラースプレーをサラサラかけた程度の返事で十分な間柄だというのに、血が繋がってないなんて、逆に驚いてしまう。わたしと充くんのデオキシリボ核酸がちょっと違うからとか、塩基配列がどうのこうのって、今から何とかならないものかしら。だからといって、充くんとの子供を産みたいわけではない。そういうのは、すきな人とすることだ。

 一個上の充くんが一高だからわたしも絶対一高に行く。勉強は得意だから、きっと楽勝だ。今まで習ったことでわからないところはひとつもないもの。友達は六頴館に行きたいと言って、この夏から塾に通い始めた。お父さんにも、進学校に行ったらどうかと勧められた。けれどわたしの意思は鋼の如くなので迷う余地もない。お父さんは六頴館出身だから娘にも行ってほしいらしい。しょうもない理由だよね、親子そろって。


の成績なら六頴館がいいと思うけど」
「やだ、充くんと同じ高校に行く」
「来てどうするの。ボーダーの推薦だっていつまでもらえるかわからないのに」


 整理整頓が行き届いた嵐山隊の作戦室で、新入隊員向けのオリエンテーションの資料を読む充くん。わたしは向かいの背もたれのないソファ椅子に座って数学の宿題を解いている。充くんのところに遊びに行くと大抵手持ち無沙汰になるので、予習復習の勉強道具は必須だ。嵐山隊は常に大忙しだから仕方ない。まさか、邪魔するつもりもない。だってわたしのせいで隊に迷惑がかかるなんて、あってはならないことだ。充くんが怒られるところなんて見たくもない。


「推薦なんかなくたって、勉強するから大丈夫だよ」
「そう」


 わたしから離した目が、資料に戻る。充くんは、いわゆる潔癖というやつじゃないだろうか、と思うときがある。汚いものを避け、ズルとかできない人。でもこれはただの願望かもしれなくて、わたしは充くんが常に充くんらしくあってほしいと思っている。取っ掛かりがなくて誰の害悪にもならないお人柄のまま、怒られるのと褒められるのが0−10の完全勝利を収めてほしいと思っている。


「お、ちゃんだ。おはよー」


 入口のシャッターが開く音に振り返る。目が合って、相手が笑ってたので、つられて笑ってしまう。しまった、と思ったけれど、べつにおかしいことじゃない。「おはようございます」
 夏の私服でやってきた佐鳥先輩は充くんにもあいさつをしたあと、ちょっと浮かない声で「おれも段取り確認しなきゃ」と言った。それから、何のためらいもなく、充くんが座っている長ソファの端っこにボディバッグを落っことした。
 トサッと置かれたそれに視線が釘付けになる。一瞬で、完成された作戦室の調和が崩れた気がした。もしここにBGMという概念があったら、冒頭にインパクトがある音楽が流れ出しそう。一方、当の佐鳥先輩はさして気にした様子もなく、喉渇いたなーとゆるい独り言を零して給湯室に足を向けた。

 初めて充くんの紹介で佐鳥先輩に会ったとき、わたしは隕石が落っこちてきたかのような衝撃を受けた。もしそのときお腹がいっぱいだったらトイレに駆け込んでいたかもしれない。顔にはっきり出てたと思うけど、充くんも佐鳥先輩も当時のことを悪く掘り返したことはなかった。
 佐鳥先輩はいわゆる、お調子者と呼ばれる人種だ。充くんのビジネスライクなチームメイトならまだしも、友達とはとても思えない陽気な人柄で、潔癖な(とわたしが思ってる)充くんを、荒らす人にしか見えなかった。充くんに似合わない。充くんがこんな人と仲良くする姿が想像できない。一緒にいたら、そのうちよくないことが起こるに違いない、というのが第一印象だった。
 それからテレビに出るようになった嵐山隊の番組を欠かさずチェックしては、充くんのよそ行きの対応と一緒に映る佐鳥先輩を注意深く観察した。嵐山さんも木虎ちゃんもしっかりしていて綺麗でいい。きっと充くんを綺麗に保ってくれる。それに比べて佐鳥先輩といえば、一挙手一投足に疑念と不安がつきまとった。こんな真逆な人が充くんの近くにいて大丈夫なんだろうか、充くんは嫌と思わないんだろうか。そんなことを考えていられた頃が一番平和だったかもしれない。

 給湯室に消えていく佐鳥先輩の後ろ姿を追う、今やわたしの目には疑念も不安もなくて、これは、きっとよくないことだ。


「充くん」
「なに?」
「佐鳥先輩ってほんとにいい人?」
「うん」


 テレビ越しじゃない生の充くんは一聞かれたら一返す。何度も聞いた質問だ。それで、毎回同じ答えが返ってくる。資料に目線を落としたまま、数学の問題を答えるときみたいに口にする。充くんはいつでも簡潔だ。わたしは彼を血が繋がっていたいくらい信頼しているので、それが本心だと十二分にわかってしまう。


「もういいんじゃない」


 充くんの言葉に、どう返すべきか思いつかなくて、肯定とも否定とも取れない苦笑いで逃げる。これは本当によくないことじゃないのかな。佐鳥先輩を見てるとまるで毒されてる気分になって、彼を正しく見られていない気がしてくる。というのに、充くんがいい人だと即答すると、前と同じ冷静な目で見ることができなくなる。


ちゃんが入隊してきた頃が懐かしいなー」


 佐鳥先輩がグラスを片手に戻ってくる。「とっきーに幼なじみの女の子がいるなんて、最初会ったときびっくりしたよ」彼の声を、風か歌みたいに聞き流す。耳触りのいい言葉だことと、心の中でなんとか皮肉ってみる。「賢ずっと言ってるよね」「だって羨ましいんだもん」隣に座ろうとしたのを、察した充くんがスペースを空けようと右にずれる。ありがとと短くお礼を述べた佐鳥先輩は座る前にグラスをテーブルに置こうとして、あっと止まった。わたしに顔を上げる。


ちゃんそっちで大丈夫?こっち寄りかかれるよ」


「だ、」一瞬喉がひくついて、飲み込んでから、「大丈夫です」言い直す。本当に大丈夫で、勉強してるから、イスの位置を動かせるこっちの方が都合が良くて、強がりじゃない。
 でも優しい。気遣いができる人なんだ。そう?と言って、グラスを置いて充くんの隣に座る。水滴が浮かぶグラスの表面に、佐鳥先輩の指の跡がついているのが辛うじて見えた。
 隣の充くんに目線を移すと、さっきまでと何一つ変わらない表情のまま資料を読んでいて、わたしは勝手に肩透かしを食らってしまう。「もういいんじゃない」って言ったくせに、わたしがよくなくてもどうでもよさそう。

 もういいのか、よくない、いい気がする、だめ、もっと慎重になって、でも充くんがいいって言った。
 弾かれたように顔を上げる。テーブルに広げられた資料を覗き込む佐鳥先輩が気付いて、目が合う。


「お気遣いありがとうございます」


 佐鳥先輩はえっと意表をつかれた顔をしたけれど、すぐに「どういたしまして?」とゆるい笑顔を浮かべた。つられて口元が緩む。それがわざとじゃないから、自分がほとほと情けない。
 やっぱりよくないことだよ。だってこれじゃあまるで、充くんを追ってボーダーに入ったのも、充くんがいるから一高に行きたいと宣言していたのも、全部伏線みたいになってしまう。ぜんぶこの人のためにあったなんてことになる。佐鳥先輩を、充くんを軸にした物差しで測れなくなる。それがどういう意味を持つのか、おそろしくて聞きたくもない。



グッバイアンチテーゼ(201108)
title:金星