※夢主が不審者と遭遇した描写があります。



 非日常な出来事は、ボーダー関連だけだと知らないうちに思い込んでいたらしい。まさか、不審者に遭遇する日が来るなんて。ボーダー内でも一人で帰らないようにと注意喚起されていたというのに、私は暗くなる前であれば一人でも大丈夫だと油断していたのだ。結果的に、私は上層部の注意喚起を無視したことになり不審者と遭遇したのだが、運良く通りかかった風間隊に助けられたのだ。そこから風間隊と一緒にボーダーに逆戻りするまでは早かったように思える。
 風間さん凄かったなとか、歌川くんは私を落ち着かせるために細かなフォローに回ってくれていたなとか、菊地原くんは各方面に連絡するのが速かったなとか、ずっと側にいてくれた三上さんの手や声が凄い優しかったなとか。なんだ、結構覚えてるじゃんと思って時を巻き戻すみたいに記憶を掘り起こすのがいけなかった。不審者と遭遇した時のことを色濃く思い出してしまったから。這い上がってくるような悪寒に耐えるように手を強く握りしめた。

「何? 怒ってるの?」
「……えっ?」

 気だるげな声が私に掛けられているのか一瞬わからなかった。でも、今この場にいるのは菊地原くんと私だけだから、私に投げかけた言葉に間違いないだろう。慌てて笑顔を取り繕ったら嫌そうな顔をされて、笑顔の下でひっそりと傷ついた。私が笑うとたまに菊地原くんはこういう反応をする時がある。

「それ」
「あっ!」

 最低限な言葉を補足するように動いた菊地原くんの人差し指は、私の手中で歪んだ紙コップ──風間隊にお邪魔する前に歌川くんが買ってきてくれたココアだ。まだ中身が残っていたことを失念していて慌てて手の力を抜いた。もう量が少ないこともあって零れたりすることは無かったけれど、飲み干すには勇気が伴った。菊地原くんからすれば私の行動は奇妙だったと思うし、グシャグシャにした紙コップを仰ぐ姿を見られるのもなんかちょっと、恥ずかしい。でも、せっかく歌川くんが買ってくれたものを粗末になんてできなくて結局、仰いだ。歪な楕円型に変形した底にココアの粉末が沈殿していたのを見て、軽く混ぜてから飲めばよかったと後悔しても遅い。ココアってなんでお湯に溶けきらないんだろう。
 不審者と遭遇した上に誰もいない家に帰らすことを風間隊が良しとしなかったので、ひとまず今晩はボーダーに泊まることになる予定だ。その件も含めて風間さんは動いてくれているというのだから頭が上がらない。後日、菓子折りを持ってちゃんとお礼をしようとひっそり決心した。歌川くんは三上さんと一緒に帰宅することになり、私を一人にするのは良くないという判断で菊地原くんが共に残ってくれることになった。正しくは、風間さんの指示と消去法で彼が私のお守りをすることになってしまったのだ。菊地原くんが一番嫌がりそうな役割だなあと思っていたら、案の定彼がすんなりと頷く筈がなく、寧ろ期待通りの反応で苦笑した。そういえば、その時も嫌そうな顔してたな。
 菊地原くんとは仲が良い方、だと思っている。クラスも一緒だし、学校でも話すことあるし。でも、そう思っているのは私だけかもしれない。だから、このような事態を招いたのは自業自得だということもあってちょっと肩身が狭い。本当は三上さんが良かったとは私が言わずともその場にいた全員が同意見だったが、私が不審者に遭遇した後ということもあって、三上さんを早く家に送り届けようということになったのだ。

「あの、菊地原くん」

 沈黙を覗き込むように声を掛けると、頬杖をついていた菊地原くんが視線だけ寄越した。
 この沈黙が心地いいかどうかと聞かれれば、私にとっては心地良いものではないけれど、それは彼も同じだと思う。親の迎えが来るまで風間隊で待っている訳ではない。生憎私はスカウト組なので親が迎えに来ることは絶対に無い。だから今、戻ってきてくれるであろう風間さん待ちというべきか。しかも、時間制限が無い。どう考えたって地獄だろう。

「私もう大丈夫だから、行くね?」
「はあ?」

 菊地原くんの明らかな怪訝を含んだ声に思わず怯んだものの、なんでだという疑問の方が強い。どう考えたってこれは菊地原くんにとっても良い話だろうに。彼は先ほどと同じように嫌そうな顔をしていた。
 部屋の手配に手続きが必要らしくそれを待っているようなもので、別に風間隊で待たなくてもラウンジか自分の作戦室で待っていたっていいのだ。今回のことで懲りて本部で一人暮らしをする方が賢明なんだろうなあと思う。多分、これから上層部からも両親からも言われることだろう。

さ、もう少しマシな嘘つきなよね」
「え」
「さっきから心臓の音凄いことになってるよ」
「は、はは……」

 菊地原くんは呆れた様子を隠すこともなく溜息を吐いた。自分でも自覚はしていたけれど、やはり彼にも私の心臓の暴れ具合は伝わっていたらしい。菊地原くんの強化聴覚の能力を垣間見えた気がする。常人の約6倍の聴覚って言われても、ずっとピンと来なかったのだ。未だに助けてと叫ぶみたいに心臓が暴れている。既に助かった身だというのに、その事実にまだ心臓が気付いていないみたいな感じなのだ。これでもまだ収まった方なのに。

「あとその気持ち悪い笑顔止めなよ」
「き、きもちわるい……」
がそんなんだからみんな調子乗るんじゃないの」

 痛いところを的確に突かれてぐうの音も出ない。またひっそりと傷ついた。
 私は気持ちを顔に出すより先に笑って誤魔化す癖がある。だから、「明るい」「能天気だ」「バカっぽい」と評価されることもしばしば。顔に出さないことが得意という訳じゃないし、普通に傷つくし腹も立つから、態度は行動に出がちだ。言動を一致させろと隊員に言われることもしばしば。それが出来たらこんなに苦労してない。
 元より菊地原くんに優しさや慰めは求めていなかったけれど、この人なんで私が本部に逆戻りになったのか知らないのでは、と一瞬見当違いなことを考えてしまった。その気持ちを表情筋に込めようと、笑って誤魔化そうとする筋肉を制して頑張って顔を歪ませてみた。

「変な顔」
「ひ、ひどっ」

 笑顔を止めろと言うからその通りにしたのに、今度は変な顔とは。私だって一朝一夕で言動を一致させられるとは思っていなかったし、あまりにも容赦がなくて普通に傷ついた。でも、不思議と苛立つことはなかった。菊地原くんが嫌そうな顔をしていなかったのだ。

「まあ、対戦相手を騙すぐらいはできるんじゃないの」
「え、ほんと?」
「俺たちには通用しないけどね」
「いやあ……風間隊と対戦する日は遠いと思うんだけど」
「当たり前じゃん。何言ってんの?」
「す、すいません……」

 菊地原くんと話しているうちに(はたしてこれを談話と言っていいのかどうか私だけじゃ判断できない)、ドンドンと鈍器で殴るように暴れていた心臓は落ち着いてきたし、心なしか息の仕方も上手くなったような気がする。

「……ねえ、菊地原くん」
「なに?」
「私の心臓の音、今はどう?」
「まだ煩い」
「えぇー……」
「でもさっきよりはマシ」

 菊地原くんの言葉は歯に衣を着せないから堪える時は堪える。でも、こうして応酬を繰り返してくれるし、多分心臓の音を指摘してきた時も、無理に気を遣わなくていいみたいなことを暗に言ってくれたのではないだろうかと思う。それがわかっただけでこの空間が心地いいものに近づいたと思う私は単純だろうか。
 この後すぐに風間さんが沢村さんを連れて作戦室に戻ってきたから、私は退散することになった。去り際に菊地原くんに「ありがとう」とお礼を言ったら「別に。風間さんに頼まれたから仕方なくだし」と捻くれたことを言われたけれど、もうへっちゃらだ。



小さな嘘でもあなたは翳る(210214)
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