更けのブーケ


まどろむ 息苦しい 目を覆う


 彼女と初めて会ったとき、カイン・ナイトレイは騎士になったばかりだった。上官や先輩たちに連れられやってきた夜の街で、散々飲み食いをしたあと最後に訪れた店が娼館だということに、初めのうちカインは気付かなかった。娼館という場所に足を踏み入れたのがそもそも初めてだったし、普段より多く酒を飲んだせい酩酊していたからだ。その娼館が、表向きはバーとして営業していたせいもあるだろう。共に飲んでいた騎士たちが酌をしていた女を連れ、一人二人と階段を上り二階へ消えていくたび、カインはぼんやりとした頭で不思議に思いながら、妙に親密そうな背中を見送った。

「お前にはとびきりいい女を用意してやったぜ、カイン」

 先輩にそう言われ、ようやくカインはこの館が何を目的とする場所かを悟った。その頃にはもう、顔見知りの騎士は誰も階下にいなかった。にこやかなマダムに案内されるまま二階に上がり、着いた先は廊下の突き当たり、一番奥の部屋だった。
 扉を開けた先は薄暗かった。マダムがすぐに戸を閉めたため、カインの目が慣れる前に室内は黒暗に支配された。それでも、そこに何があるかはおおかた予想がついた。大きなベッド、美しい女、煌びやかな内装。いつ甘やかな声がしんとした室内を揺らすのかとやや緊張しながら立ちつくす。しかし、目が慣れても、声どころか物音ひとつ聞こえてこなかった。
 暗闇に慣れた視界に入ったのは、確かに想像していた通りの部屋だった。ただひとつ、テーブルとそこに着く女を除いて。ベッドから少し離れたところに鎮座する天然木でできた四角いテーブルは、厚みのある天板にしっかりとした脚を持ち、娼館に置くにはあまりにも無骨だった。そしてそれは、女も同様だった。見た目はカインの想像する娼婦そのものだった。たおやかな髪、胸元の開いたドレス、暗闇でも目立つ色の濃い口紅。ただ、女は下の階で見た娼婦のような表情ではなかった。というより、女に表情はなかった。口を真一文字に結び、テーブルの上だけをみつめている。彼女はカインが入ってきても、ちらりとも視線を上げなかった。
 彼女の視線は、テーブルの上の正方形の盤にのみ注がれていた。その盤は、テーブルをぴったり覆い隠してしまうほどの大きさで、盤面にはさらに細かい模様が施されていた。その盤よりひとまわり小さい正方形の枠が描かれ、さらにその中は升目状に線が引かれている。縦横の線が交わることでできるいくつもの正方形はすべて同じ大きさで、そしてすべてが黒と白交互に塗りつぶされていた。盤上には酒もフルーツも置いていない代わりに、盤面の正方形と同じ色をした小さな駒が置いてある。駒は黒と白の正方形の上に行儀良く置かれていたが、すべての正方形の上に置いてあるわけではないようで、彼女の前に二列、カイン側に二列、何かしらの規則性を持って並んでいるようだった。黒と白の盤、つるりとした駒、カインはそれらに馴染みはなかったが、見覚えはあった。

「……チェス?」

 カインの呟きに、女はようやく視線を上げた。意志の強そうな、そのわりに海の底のように奥の見えない瞳が、カインをみつめる。そしてその目は、すとんとカインの前にある椅子に落ちる。……座れということか。状況がさっぱり飲み込めないまま、カインはひとまずテーブルと同じ天然木でできた椅子を引いた。飾り気のない重厚感のある椅子は、床をこすり耳障りな音を上げる。

「あー、あの、あんたは……」

 カインの言葉を待たず、女は手を伸ばし、彼女の前にある白い駒のひとつを取った。升目の横一列すべて埋めているその駒は、ほかのものよりデザインがシンプルだ。あれは確か、ポーンだった、はず。彼女が駒を動かしたということは、ゲームが始まったということか。カインが彼女の目の前に座ったから。それが、ゲーム開始の合図だったのだ。
 娼館の奥まった部屋の一室で、なんでチェスなんか。カインの頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。カインの知る娼館とは、女と遊ぶところだ。その“遊ぶ”という言葉には、様々な意味が内包されている。でも、チェスをすることは含まれていない。例えば屋敷を持っているような高級娼婦であれば、教養も高く、貴族のするようなゲームも一通りこなすという。かといって、なんの挨拶もなく唐突にチェスを始める娼婦がいるだろうか。それに、一介の新米騎士が金を払えるこの娼館に、それほど高い女がいるとも思えない。
 カインがぐるぐると思考し黙りこくっていると、女の目が再びカインを捉えた。口は開かない。深く深く、いくら潜っても底にたどりつけない深海の瞳だけが、カインを見ている。
 チェスのルールは最低限しか知らないカインだったが、「交互に指す」ということはさすがに知っていた。彼女の目がじとりと圧をかけるので、カインも見よう見まねで駒をとり、前へ進めた。ポーンは前方に一マスずつしか進めない。それもかろうじて知っていた。
 女のかぼそい指が盤上へ伸びる。これまで見た誰よりも細い指だった。まるで、駒を握り動かすためだけに存在しているのではないかと錯覚する指だった。カインが拙い手つきで駒を進めると、彼女も駒を進める。カインが初心者であることに、彼女はおそらく気付いているだろう。これが勝っているのか負けているのかもわからない。カインはその程度の知識しかないのだ。彼女の実力が如何ほどかわからないが、少なくともカインよりはゲーム慣れしているはずだ。そんな女にとって、ズブの素人とのチェスは果たして楽しいのだろうか。カインはちっとも楽しくなかった。わけがわからないまま駒を取られ、ジリジリと追いやられていく。でも、途中で投げ出したくはないと思った。
 女は、辛抱強くカインとのゲームを続けた。きっとすぐに負けると思っていたのに、そのゲームはなかなか決着がつかなかった。女が、なるべく時間をかけてゲームを進めていたからだ。圧倒的な力量で押し切ろうと思えばできるはずなのに、女はまるで指南をするようにチェスを指した。ここに置くと駒を取られる。こう進めると相手は動きづらくなる。ゲームの中で、カインは少しずつ学習していた。

「チェックメイト」

 それは、女が初めて発した言葉だった。そこからどう足掻いてもキングを逃がすことが出来ず、その勝負はようやく終わりを迎えた。それまであまり乗り気ではなかったはずなのに、ゲームが終わる頃には不思議と、物足りないという気持ちが溶けきらなかった砂糖のように残った。チェスの奥深さに触れたからかもしれない。ルールをなぞるだけ以上のゲームがしたい。もう少し続ければ、何か掴めるかもしれない。

「もう一回」

 その言葉が知らず知らずのうち自分の口から溢れていたことに、カインは初め気付かなかった。女はカインを見て小さく頷き、盤上を整え始める。一番最初の隊列に戻すのだということはカインにもわかったので、自分の黒い駒をカインは並べ直した。
 二局目を指し始めたときは、「なぜこんなところでチェスなんて」と、現状を疑問に思う自分がカインの心の中にまだいた。しかしながら、二局目の終わりには、そんな自問自答はすっかり消えていた。二局目もカインの負けだった。その頃にははっきりと、この女に勝ちたいという気持ちが生まれていた。三局目はどちらともなく始まった。
 次第に少しずつ、カインはチェスのルール以上のことがわかるようになってきていた。ここの守りが薄いから攻められる。どの駒をどう動かすかで流れが大きく変わる。チェスで戦術を学ぶ騎士もいると聞くが、カインはそれまであまり興味がなかった。己が強くあれば主を守れると、強く信じていたからだ。しかしながら、その夜指した数局の中で、カインを苦戦させたそのほとんどはポーンだった。ポーンはキングを取れないが、他の駒がキングを狙えるようアシストすることはできる。チェスの中で最も非力で数の多い一兵士が、玉座近くまで迫れるという事実に、カインは純粋に感心したのだ。強い力もない、前に進むしかできないポーンが、女の戦術で立派な騎士に変わる。駒の能力以上を、女は引き出しているように感じた。騎士団の戦術家でも、こうも鮮やかなチェスを指せる者は少ないだろう。

「チェスは初めて?」

 夜通しチェスを指したせいで脳が疲弊し、身体を動かしたわけでもないのにくたくたになったところだった。女が不意に声を上げた。女の声は暗闇にぽたりと落ち、あたりをほのかに照らした。カインが曖昧に頷くと、女はゲームの終わったチェス盤に目を向けた。

「あなたのナイトは勇敢ね」

 女は言った。この晩過ごした濃密なゲームを通して、カインはナイトを特別気に入るようになっていた。ルークやビショップ、そしてクイーンよりは限られた範囲しか動けないが、その動きひとつで戦場を大きく変えることができる。そもそもナイトは遠くへ行く必要はない。王のそばで王を守れればよいのだ。駒の名称も相まって、カインはいつしかナイトに自分を重ねてさえいた。キングを守るためなら味方を飛び越えてでも駆けつけ、盾になる。好機であれば真っ先に先陣を切り、道を切り拓く。カインが幼い頃からこうありたいと願う騎士の姿を、盤上の小さな駒に託していた。

「愚直だと思うか?」
「あなたらしくていいと思うわ」

 その日初めて会った女に“あなたらしい”と言われたことに、不思議と嫌悪感はなかった。だってもう、彼女はカインの内側を知っている。ベッドの中で抱き合うよりもよほど密度の濃い夜を過ごしているのだから。
 この夜がもっと欲しい。その思いは言葉となり口からこぼれ出た。

「また来てもいいか?」

 カインの言葉に、女はやや目を見張った。その表情の変化はほんの一瞬で、次の瞬間にはもう、人形のように表情を消した女がいた。

「お好きにどうぞ」



 は、その娼館では異質な存在だった。彼女は客に酌をしない。それどころか、あの奥まった一室から出ることがない。薄暗い部屋の中で、彼女はただひたすらにチェスを指す。それが、メゾン・クローズでの彼女の役割だった。
 彼女の客は、彼女を欲の捌け口にしたくてやって来るわけではない。いいや、ある意味では、チェスの欲望への捌け口にはなっているのかもしれない。彼らの目当ては、あの新品のように綺麗なベッドの上にはない。すり減ったテーブルの上の、模様の掠れた盤上にあった。
 カインへを紹介した先輩騎士は、入団して早々自分より力をつけてしまった後輩へ、ちょっとした意趣返しがしたかったらしい。女を抱く場所にいる、抱けない女。チェスに興味のない客にとって、はその程度の存在でしかない。だから、何も知らないカインが意気揚々との部屋へ赴き、拍子抜けし、落胆する様を見たかったのだという。しかし結果として、カインはそれなりに楽しい夜を過ごした。娼婦を抱くことはできなかったが、そういった欲はそこまで強いほうではない。稽古や訓練など、身体を動かすことで性欲をうまく昇華しているのだろう、と以前物知り顔の同期に言われたことがあるくらいだ。

 の客は年配の貴族が多かった。チェスを指せるほど教養のある人間は、市井にはあまりいない。しかも、目の前の美しい女の柔らかい肌より冷たい盤上のゲームに興じる男なんて、よほどの変わり者か、チェス狂いしかいなかった。だから、年若い騎士が彼女の馴染みになることは非常に珍しいらしく、カインは一時、娼館街中、そして騎士団中の噂の的となった。

「お前、実は魔法使いなんじゃないかって噂されてるぜ」
「え?」

 昼間の食堂で同期にそう言われたとき、カインは一瞬背筋がひやりとした。生憎、人の出入りが多く、ガヤガヤとうるさい騎士団の食堂で、そんなカインの内心に気付いた者はいなかったが。

「最近“ユートリヴのチェス人形”に熱上げてるんだろ?」
「ああ、まあな」

 “ユートリヴのチェス人形”とは、言わずもがな彼女のことである。メゾン・クローズ“ユートリヴ”の一室に置かれた、にこりともせず、ほとんど口も聞かない、ただチェスだけを見つめる自動人形。あまりにも娼婦らしからぬは、いつしかそう呼ばれるようになったらしい。けれどもカインは、彼女が心のない人形なんかではないことを、もう知っていた。

「あの女の客層はちょっと特殊だろ? 中には女を抱き飽きた魔法使いも紛れ込んでいるらしい」
「へえ」
「ま、下町で同じように育ってきたお前が、何百年も生きている魔法使いなわけないって笑い飛ばしておいたけどな」

 同期の男は闊達に笑った。彼とは家が近く、幼い頃から兄弟のように育った。一度、川で溺れた友人を助ける際に魔法を使ったとき、そばに彼もいたのだが、それを言及されてことは今日まで一度もない。友人思いで、見かけによらず思慮深い同期は、あえて噂を指摘することでカインへ警告をしたかったのだろう。怪しまれているぞ、気をつけろと。

「で? 本当のところどうなんだよ。まさか本当に一晩中チェスを指してるわけじゃあるまいし」
「そうだが?」
「……まじか。共寝もせず?」
「ああ。行くたび朝までチェスをしているんだが、いまだに彼女に勝てないんだ」
「そもそもお前、チェスのルール知ってるのか?」
「勉強した。彼女にも少し教えてもらったしな」
「勉強?! 5分も椅子に座ってられないお前が?!」

 男は顔を驚愕に染め身を仰け反ったが、すぐ呆れたようにため息を吐いた。

「チェス人形とはいえ、あの女も歴とした娼婦なんだから、あまりのめり込むなよ」

 友人の言葉は最もだ。ユートリヴは中央の街のメゾン・クローズの中でも比較的良心的な価格設定だったが、それでも新米の騎士が夜毎通えるほど安くはない。腐っても高級娼館。カインが新米騎士であったうちは、月に一度彼女の元へ顔を出せれば良いほうだった。もっと頻繁に通えればチェスの腕が上達するのかもしれないとは思うが、借金をしてまで彼女のもとへ通いたいとは思っていなかったため、娼館通いのせいで破産することはなかった。を自分だけのものにしたいとか、他の客よりも彼女の時間を独占したいとか、そういう欲望も今のところない。たまの贅沢としてユートリヴの扉を叩き、バーで軽く酒を飲んで二階の奥の部屋へ行く。それくらいで十分だったのだ。
 とは、会うたびただひたすらにチェスを指した。集中しているうちに窓の外が白み始め、夜が明けていることを知る、というのが常だった。だから、と会った次の日は決まって寝不足だった。早朝稽古や長期任務がある前日には、彼女のもとへは行かない。それはカインが勝手に定めたルールでもあった。
 他の客が彼女とどのような夜を過ごしているのかは知らない。直接彼女に尋ねるほど野暮ではないし、カインにとって他人はあまり関係なかった。少なくともその夜は、カインと二人のものだったからだ。

「こんばんは、勇敢なナイトさん」

 二階の奥の扉を開けると、表情の薄い女が出迎える。部屋に入り、席に着いたカインに対し、彼女はいつも一言だけ言葉を発した。それが、ゲーム開始の合図でもあった。それからは、その晩の対局が終わるまで、はほとんど口を開かない。そのため、自然とカインも無口になる。張り詰めた静寂の中、駒が盤の上を動くときのコツリという音だけが時折微かに鳴る。の部屋は防音でもされているのか、隣の部屋や階下の物音などは一切聞こえてこなかった。その静寂が、カインは嫌いではなかった。早朝の稽古場や、朝日差し込む森の中に、正反対のようでどこか似ているように感じたのだ。
 夜が白み始めるか、お互いの集中力の糸が緩んでしまったときに、二人はまばらに会話をした。

「あんたはほんとにチェスが好きなんだな」

 それは答えを求めて口にした言葉ではなく、自然と漏れ出たものだった。水差しからコップへ注いだ水に口をつけたは、微かに喉を揺らしてそれを飲み干した。彼女の瞳がカインを捉える。朧気な灯りの中、彼女の白い駒たちだけがやけに浮かび上がって見えた。

「あなたはチェスが好き?」
「うーん、」

 どうなのだろう。に出会い、チェスを知った。彼女に会うたびチェスを指し続けたおかげで、ズブの素人だった当初よりルールには詳しくなったし、強くなったと思う。けれども、いろんな人を相手にたくさんチェスを指したいとまでは思ったことがなかった。カインがチェス人形に入れ上げていると知ったチェス好きの同僚や上官に、何度かチェスに誘われたこともある。もちろん誘われれば断ることなくチェスを指したが、そのどれもが、この夜のチェスとはどことなく異なっている気がした。チェスにだけ向き合い、時間の流れや飲食をも忘れるほどに没頭し、ヘトヘトになって朝を迎えるこの熱量は、この部屋の外では得られないものなのだ。チェスはもちろん気に入っている。でもそれは、彼女とこの場所が揃って始めて生まれる快楽なのではないだろうか。カインは最近、そう思い始めていた。

「あんたと過ごす夜は好きだよ」

 彼女は瞬きを数回して、カインをじっとみつめた。そしてほんの少しだけ口元を緩める。頼りない光源の元、彼女の小さな表情の変化を見逃さまいと、カインはついつい、深く彼女をみつめ返していた。彼女の表情は、澄んだ小川のせせらぎのように透き通っている。

「私もよ」



 その後も細々とユートリヴに通っていたカインだが、マダムに認められ、の顔馴染みと呼べるほどの客になったのは、結局騎士団長に叙任されてからだった。通い始めのうち、マダムにはおそらくあまりよく思われていなかった。位の低い新米騎士なんて、いつ金を払わなくなるかわからないと思われていたのだろう。確かに、先輩や同僚の中には、娼婦に熱を上げすぎて借金をしてまで娼館へ通い、挙句金が払えず店から追い出されたというやつもいた。そんな輩と比べれば、カインの遊び方は身の丈にあった、いかにも“金のない貧乏騎士”らしいものだった。金は欠かさず払っていたから、だんだんと信用度は上がっていただろうが、太客と呼べるほど金を落としているわけではなかったので、マダムにとっては「取るに足らない客の一人」だっただろう。
 若くして実力のある騎士として、そして“ユートリヴのチェス人形”に熱を上げている若い騎士として、良くも悪くも噂の的だったカインなので、騎士団長に叙任されたことも、その日の晩には娼館街まで広く知れ渡っていた。いつも、中身のない木の洞のような笑顔で出迎えるマダムが、その日に限って心底嬉しそうににこにこしていたものだから、カインは思わず半歩後ずさった。騎士団長であれば、多少給金も上がるから今以上に金を落とすだろうし、“騎士団長が通い詰めている娼館”として、ユートリヴにも箔がつく。マダムはそう考えたのだろう。

 その日のはいつも通りだった。薄暗い部屋で無表情にカインを迎え入れ、じっとチェスを見つめていた。街を歩けば知り合いに、「騎士団長になったんだって?」と代わる代わる声をかけられる一日だったのだ。階下のバーでも、普段あまり話すことのない娼婦にまでその話題を振られたというのに、この店で一番長い時間を共に過ごしている彼女は素知らぬ顔だ。その様子に、カインは少しだけ拍子抜けしたし、予想していた通りのの反応に少しだけ安心していた。大層な肩書きがくっついた途端、急にまわりの見る目が変わってしまった。誇らしいことでもあるが、どこか居心地の悪さを感じていたのも事実だった。
 貴族でも名門の生まれでもないカインには後ろ盾がないため、騎士団長という肩書きは純粋に実力だけで手にしたものだった。グランヴェル王朝の騎士団は、他国のそれと比べると身分差ゆえのしがらみや差別は少なく、あからさまなコネはほとんど見かけない。それでも、地位が上がれば上がるほど、その顔ぶれは上流階級の人間が多い傾向にあった。そんな中を剣の腕一本でのし上がったカインは、いつしか同じ下町生まれの希望のようになっていたのだろう。同郷や後輩同輩に憧憬の目を向けられ、ときには先輩にまで感嘆の声をかけられた。騎士団長という地位は、自分が努力した成果であり、認められることは純粋にうれしい。しかしながら、カイン自身は突然何か変化があったわけではなく、これまでの積み重ねの結果がこの地位であっただけなのに、仰々しい肩書きがついた途端どこか別の人間になってしまったような気分に陥った。昇格したばかりで、まだ気持ちが追いついていないせいだろうか。いつまでも新人の頃と変わらない気分ではいけないと気を引き締めつつ、やはりまわりの自分への認識と、カインの思うカイン自身の差に戸惑いを拭いきれないでいた。
 その戸惑いはチェスにも表れた。いつも勇敢で、真っ先に敵陣へ飛び出し道を切り拓くカインのナイトは、その晩は攻めあぐね、一歩引くように守りに入っていた。前だけを見て突っ込んでいくばかりではなく、全体をよく見て動いたほうがよいのではないかと、不意に思ったのだ。結果、ナイトの動きは精彩を欠き、のクイーンにこてんぱんにやられてしまった。ひとゲーム終えたところで、は水差しから水を注ぐ。それが小休止の合図であることを知っているカインは、深く息を吐き椅子に背を預けた。よく冷えた水差しから水滴が落ち、チェス盤に小さな染みをつくる。カインは階下から持ち込んだワインを一口飲んだ。

「こんなおめでたい夜に、こんなところへ来てよかったの?」

 水を飲んだは、カインに尋ねた。
 今日、騎士団長に叙任された。もちろん同僚たちには、祝いの席を用意しようと言われていた。カインも初めは乗り気だった。それなのに、誘いに乗ろうとした口を開いたその瞬間脳裏に過ったのは、この暗い部屋にいるチェスの強い娼婦の眼差しだった。

「こんな夜だからこそ、あんたに会いたかったんだ」

 友人たちの誘いを断って、今はよかったと思っている。あのふわふわした感覚のまま祝われたとしても、心の底から喜ぶことはできなかっただろう。とチェスをすることで、カインは自分自身をみつめ直したいとも思った。けれども結局、心の揺らぎがそのままチェスにも表れ、には気を遣われている。格好がつかないな、とカインは苦く笑った。

「あなたのナイト、わたしは好きよ」

 ぽつんと、暗い部屋に落とされたの声は、ベルベットのようにやわらかかった。あまり聞くことのできない彼女の声を心待ちにしている自分に、カインは気付いてしまった。

 カインがその夜、同僚からの誘いを蹴ってに会いに行ったということは、彼が騎士団長になったという噂以上に早く広まり、好き勝手に尾ひれをつけ、気ままに泳いだ。カインはどうやら本気でに惚れているらしいというものから、のために屋敷を建てるつもりらしいだの、結婚の申し込みをしているだの、その尾ひれはカインの知らないうちに大きく立派になっていた。否定もしていないが特に肯定もしていないというのに、まわりの騎士連中はこぞってカインを囃し立てる。男所帯で、訓練に遠征に護衛にと、代わり映えのない毎日を送っている騎士連中は、娯楽や刺激に飢えているのだ。自分の噂で盛り上がることが彼らの気分転換に繋がるのならまぁいいかと、カインはそれを窘めることもしなかった。へ迷惑がかかる可能性は危惧したが、彼女は会えば相変わらず静かにチェスを指すだけだった。

「チェス人形に、土産とか持ってかないんすか?」

 あるとき、騎士団の後輩騎士に言われ、カインは首を傾げた。その日もユートリヴを訪れるつもりだったが、いつものように手ぶらだった。へ何か贈り物をしたことは、これまで一度もない。外で会うこともなく、あの部屋で酒を飲むこともほとんどない。話に花を咲かせることもなく、ただひたすらにチェスをする。馴染みの娼婦に花やらチョコレートやらを渡すのが、色男の嗜みであるということはカインも知っていた。しかしながら、それは自分たちの関係には当てはまらないだろうと思い込んでいたのだ。蓋を開ければやっているのは夜な夜なチェスを指しているだけなのだが、傍から見れば、馴染みの娼婦に会いに行っているのと何も変わらない。
 ならば、たまには土産のひとつやふたつ持っていくのもよいのかもしれない。この機会にマダムにいい顔してしておくのも手だ。今晩は彼の助言のとおりにしてみるか、と思ったところで再びカインは首を傾げた。

「……は何を好きなんだ?」

 チェス以外の話ーー好きな食べ物、飲み物、最近気になっていることや興味のあることなどといった話は、これまでまるでしたことがない。もカインに尋ねないから、カインも彼女に尋ねることをしなかった。外出を制限されている娼婦に、どこまで聞いたら失礼に値しないかなんて、わからなかったからだ。彼女との夜で気まずい沈黙を過ごしたことがないせいもあるだろう。

「女なら、花とか甘いものとかでいいんじゃないですか? ああでも、相手はあのチェス人形だしな……」

 助言をくれた後輩まで首を傾げてしまう始末だ。あの部屋で彼女が口にするのはもっぱら水で、時折果物をつまむ程度だ。とても趣味嗜好なんて読み取れない。チェスが好きなのは確かだろうが、例えば宝石でできた美しいポーンやビショップを渡したとしても、彼女はあまり喜ばない気がした。

「あんた、好きなものはあるか?」

 結局、大して良い案は浮かばす、その晩は小さなブーケを持って彼女へ会いに行った。白い花を基調に作ってもらったのは、彼女に似合う色すら思いつかなかったからだ。暗い部屋に置物のように座る彼女しか知らないものだから、赤や黄色など、鮮やかな色を纏っている印象がどうしても持てない。ドレスはいつも色の濃いものを着ているようだったが、陽の光の下で見たことがないせいで、あれが青なのか紫なのか緑なのかはわからなかった。
 持ってきたブーケを、は静かに受け取った。二三、瞬きをして、たどたどしくお礼を口にして。驚きの表情とはまた違い、どこか戸惑っているようにも見えた。まさか、彼女へ何か渡すのはタブーなのだろうか。そう不安になるほどに、彼女の表情はいつもと異なる色味を孕んでいた。

「花はあまり好きじゃないのか?」

 女中に花瓶を持ってこさせたは、包装紙を丁寧に開き、花束を花瓶に活けた。彼女が、チェスを指す前に何か別のことをしているのを見たのは初めてだった。素っ気ないつるりとしたガラスの花瓶に、慎重な手つきで花を挿していくその背中に、カインは気付いたら尋ねていた。彼女は振り返り、また瞬きを数回してカインを見つめた。

「どうして?」
「すごく驚いているように見えたから」
「それは、」

 彼女は言葉を切り、手元の花に視線を落とした。すっと通った鼻筋の先が、小さなかすみ草に向けられている。緩く巻かれた髪が、彼女の華奢な肩を隠すように腰まで伸びていた。形のよい唇が、躊躇うように開かれる。

「白い花が、一番好きだから」

 彼女と目が合わないことはあまりない。彼女はいつもまっすぐ、少しの淀みもなくカインをみつめる。その娼婦らしからぬ、一本線のような強い眼差しをカインは気に入っていた。こんな風に狼狽える彼女は新鮮で、なぜだか不思議と目が離せなかったのだ。

「だからびっくりしたの」


▼△▼


「いつまで隠してるつもり?」

 それはとても長い一日だった。訓練中に突然、どこからともなく魔法使いが現れ、無差別に騎士たちを襲った。その魔法使いはとても強く、部下は次々に倒れ、騎士団長のカインでさえ手も足も出なかった。それはあまりにも一方的な暴力で、戦いなんて呼べるものではなかった。魔法科学兵器ともまた違う、自らの手足のように魔法を使う手練れの魔法使い。栄光の街や視察で行った他の街にも、まれに魔法使いはいたが、魔法使いが魔法で戦うところを見たのは初めてだった。箒で空高く飛ばれてしまうと、カインの剣は届かない。それでもなんとか部下だけでも逃さねばと奮進するカインを見て、魔法使いは嘲笑った。

「どうして魔法を使わないの? お前、魔法使いだろ?」

 その一言に、カインは息を呑み、部下たちはどよめいた。目の前の強敵以外の難題を、唐突に突きつけられた気分だった。
 いつ知られてもいいように覚悟を決めてきたはずだったが、それがまさか今日であるとは思わなかった。カインの動きがわずかに鈍る。その隙に魔法使いは、赤子の手を捻るように部下たちを倒していく。動揺し統率を欠いた騎士団なんて、魔法使いの敵ではない。カインも咄嗟に魔法を使ってはみたが、経験の差は歴然だった。今まで箒に乗ったこともなければ、シュガーを作ったこともないのだ。その男の足元にも及ばず、虫の羽をちぎるように簡単に倒され、見せしめとばかりに片目を奪われた。這う這うの体ではあったが、部下を逃がすことができたことだけが救いだった。

 魔法使いであることが明るみになったカインは、騎士団長の地位を剥奪されることになった。悪い魔法使いが主君をたぶらかしてはいけないから、という理由からだった。これまで魔法使いであることをひた隠しにしてきたことも裏目に出た。何か後ろめたいことがあるから、人間のふりをしていたのでないか。そう問われ、咄嗟に言い返す言葉をみつけられなかった。信頼する仲間や友人に隠し事をしているという事実に、後ろめたさを覚えていたのも事実だったからだ。
 怪我を負い、片目は色を変え、築き上げた地位は取り上げられてしまった。ここが人生のどん底だと言われても素直に信じてしまうようなことが立て続きに起こった日だった。あのオーエンという魔法使いに軽く捻られてしまったことも悔しかった。しかしながら、何日も落ち込み続け、下を向いて暮らすのはカインの性分ではない。まあ、なんとかなるだろう。もしここがどん底だとしたら、もうこれ以上落ちることはない。あとは上に這い上がるだけだ。カインは持ち前の前向きさで、なんとかその“どん底”から立ち上がった。

 ユートリヴのマダムの態度は、カインが新米騎士だった頃に逆戻りしてしまった。門前払いされなかっただけマシだと、カインは思うことにした。の馴染みには魔法使いもいると聞くし、相手が人間か魔法使いかなんて、メゾン・クローズではさしたる問題ではないのかもしれない。
 はいつも通り、チェス盤の前に座っていた。彼女の態度に変化がないことに、カインはひどくほっとした。きっと、内心で期待していた。だから今日この日、この店に来たのだ。
 彼女のチェスもまた、いつも通り綿密で、カインはやはりこてんぱんにやられてしまった。これでも初めよりは勝ち星も増え、彼女の手が止まる時間も長くなっていたというのに、今夜は手も足も出なかった。ひとつゲームが終わり、が冷えた水を注ぐ。休憩の合図だった。

「疲れた顔をしているわ」

 の声に感情はほとんど滲んでいなかったが、彼女なりに心配しているということに、カインは気付いた。彼女はチェス人形ではない。チェスを通して対話をする、奇妙な娼婦。外の世界でどんなことが起ころうと、チェスを通して見たものしか信じない。それがという女だった。

「ちょっと、いろんなことがあってさ」

 彼女に自身の話をしたのは、その日が初めてだったように思う。カインはの好きなものすら知らない。同じように、自分が昼間どんな一日を過ごし、何を思ってどう感じたかなんて、彼女に話したことはない。咄嗟に浮かんださまざまな言葉を押し留め、呑み込み、そうして代わりにこぼした言葉は、ひどく曖昧で抽象的だった。彼女には愚痴も弱音も聞かせたくなかったからだ。その曖昧な言葉を、は静かにじっと聞いていた。深い瞳が、チェスを介さずにカインと対話しようとしている。彼女はこの目で、他の男も同じようにみつめるのだろうか。
 不意にが立ち上がった。カインのすぐそばまでまわり、その手の甲に手を重ねる。ひんやりとしたやわらかい手だった。ゆるく握られ、引かれるままに立ち上がる。振り解ける力だったが、カインは彼女に従った。振り解く理由がなかったからだ。がカインを導いたのは、これまでどの夜でもまったく使うことのなかった大きなベッドだった。促されるままベッドの縁に腰掛けると、チェスを指すためだけに存在する彼女の指が、カインの肩に触れた。

「今日は少し、休むといいわ」

 本当はあまり、休みたくなかった。だから夜通しチェスをしていたくて、ユートリヴに来たのだ。こういうときに立ち止まると、歩き出し方がわからなくなってしまう。自分の感情と向き合ってしまえば、それに溺れてしまう。
 けれど、彼女の声が今までになく優しく響くものだから、カインは言われた通りベッドに身体を沈めた。染みひとつない天井だった。この部屋の天井を、こうもまじまじと見る機会はあまりなかった。大抵ずっと、テーブルの盤上だけをみつめていたからだ。
 足元で、ブーツの紐が解ける音がする。どうやら、が靴を脱がしてくれているようだった。窮屈なブーツから解放された足をベッドの上に投げ出す。シーツのかさついた音が耳につく。これまで誰にもーーにさえも使われたことがないかのように、皺ひとつなく整えられたベッドだった。その清廉さが不思議と落ち着いた。右脇が音もなく沈む。がベッドに腰掛けたのだろう。目をやると、彼女もまたこちらを見ていた。薄暗いはずの室内で、彼女の顔はよく見えた。テーブル越しに対しているときより近い距離にあるの頬には、薄くそばかすが散っている。それがとてもきれいなものに、カインには思えた。
 前髪で隠したほうの目が、不躾に辺りを見回している。奪われた片目の代わりに嵌められたオーエンの目玉は、カインの言うことを聞こうとしない。カインの力がオーエンよりも弱いせいで、まだ主だと認めてもらえていないのだろう。咄嗟に瞼を閉じようとしたが、目玉がそれを許さなかった。仕方なく、片手で目を覆う。オーエンが、カインの目を奪った意図はわからない。しかしながら、突然目の色まで変わった騎士団長に、信じようとしてくれた部下たちでさえ恐れの表情を隠せなかった。孤立し、絶望する様を、文字通り自らの目で見たかったのだろうか。とすれば、あの男の思惑は外れたことになる。カインはまだ、絶望してはいない。少しばかり疲れただけだ。
 おもむろに髪を梳かれる。顔半分を覆う前髪を優しく撫でられる。かき上げられ、額にのせていた手のひらを外される。カインのものではない目がぎょろりと動く前に、彼女の手がそれを隠した。目隠しをするように、彼女のひんやりとしたてのひらが両目に覆い被さる。彼女の手が冷たいのか、自分の身体が火照っているのか、カインにはわからなかった。視界にはなにもない。けれどここは、どん底ではない。カインは深く息を吸い込んだ。浅い呼吸ばかり繰り返していたことに、そのとき初めて気が付いた。どうりで息苦しいわけだ。

「なあ、」

 すぐそばで、女が身じろぐ気配がする。

「声を聞かせてくれないか」

 自身の声が常より甘ったるく響いていることに、カインは気付いていた。口数の少ないの、控えめに空気をふるわす声を聞きたい。色のついていない水のような、何にも染まらない彼女らしさにいつしか惹かれていた。もう、盤上だけではとても足りない。

「おやすみ、勇敢なナイトさん」

 言うことを聞かなかった瞼が、ここになってようやく落ちてくる。呼吸のしやすいしじまは、どこまでいっても深く、底がない。それは彼女の瞳の奥にあるものと似ていた。



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