なたの手のひらの温度


頬に触れる アメジスト まどろむ


「魔除け」


 復唱した声が疑念をはらんでいたことを主ならば察してしまっただろう。一度口にした言葉は返ってこない。次に息を吸うより早く、後悔に襲われていた。後悔とはこうも早く訪れるものなのか。もっとあとになってわかるものだと思っていたため、不意を突かれたように思考と身体の自由が奪われ、冷静に考えられず、指一本たりとも動かせない。瞠目する俺を見てどう感じたのか、目の前の主は正座した太腿の上に乗せていた数珠を指で摘み上げ、輪の内側から再度俺を覗き込んだ。「うん」さほど離れてはいない距離。開けた障子の隙間から乾いた風が吹き込んでこそいるが、主の私室、彼女と対峙しているのは俺しかいないにも関わらず、内心を押し計れる気がわずかもしない。もっとも、それは状況に依存したことではなかったが。
 紫色の玉がいくつも連なり輪になったそれは、主の指先から離れると、ジャラと音を立て脚の上でのたうつ。相当長い数珠だ。玉の数は百では足りないだろう。一つ残らず同じ種類の玉を使っているらしく、房は埋もれていて今は見えない。ただの紫が、主の脚の上で一塊になっている。


「帰り道で知らない人に渡されたの。魔除けにって。霊力のある人がそんなこと言うからつい受け取っちゃった。さすがに同業者ではなさそうだったけど」
「……そうですか」


 午前の間、主は本丸を留守にしていた。買い物だと言っていた。近侍である自分が同行を申し出たものの、本丸での当番事があることを知られていたため断られた。最終的に何振りか連れて出立したはずだが、そいつらはなぜ受け取ることを看過したのか。俺がいれば確実に断らせた。少なくとも帰路の途中で捨てるよう進言していた。「魔除けの数珠」など。
 現場を想像するも据わりの悪さが消えない。うねり、悪化の一途を辿るばかりだ。霊力持ちの人間とは何者なのか。同行した刀剣男士は誰だったのか。犯人探しと八つ当たりの思考に引きずられ表情が歪む。それを自覚した次の瞬間には、平静を装ったが。


「……しかしながら、その石には何の力もないようですが」
「えっ、長谷部わかるの?」
「ええ」


 答え、目を伏せる。主の脚の上に今もなお我が物顔で鎮座するそれを見下ろしていると、主はどこか上擦ったような声で、「そっかあ」と背筋を伸ばした。


「じゃあ、これ、いらないね」 


 浮き足立つような声を疑問に思うも、俺が視線を上げることができたのは、彼女が脚の上の塊を片手で鷲掴んで立ち上がったあとだった。
 持ちきれなかった部分が、ジャラ、と垂れる。なぜこうも耳障りに感じるのか。顔を上げるも、主は俺にも音にも意に介すことなく、背を向け、鏡台の引き出しから木箱を取り出していた。酒桝程度の大きさのそれを天板に置き、蓋を開ける。真上から注ぐように、ジャラジャラと音を立てながら垂らしていく。あんなに長かった数珠は、数秒と経たぬうちに一粒と溢れることなく箱へと吸い込まれていったようだった。体積が釣り合っていないように見えるが、あの木箱も何かの呪具だったか。入手の経緯へと思考をやろうとするも、主の木箱をしまう動作ですぐさま引き戻される。
 振り返った彼女と目が合った。と思う。見上げているのに表情を視認できない。自分の内心が、後ろめたさに支配されているからだ。思考がだんだんと渦を巻く。


「長谷部って、石とかに詳しいの?」
「…いえ、そういうわけでは」
「そう?でも、いい。今度一緒に買い物行こう。わたしこそ全然詳しくないんだけど、見るのも楽しいよ」


 主が軽い足取りで近づき、目の前でしゃがんでようやく表情がわかる。両腕で自身の膝を抱き覗き込む彼女は、首を傾げ、目を細め、口角を上げていた。数珠を扱っていた先ほどより、数段晴れやかな笑顔を浮かべていたのだ。
 認識した途端、呼吸を忘れる。罪悪の思考が塗りつぶされていく。一度真っ白になり、それから、我に返る。今俺は何を思ったのか。


「主のご命令とあらば」


 口をついて出た言葉に嘘などない。主の要望ならば何でも応えてみせる。もちろん後悔などもなかったが、主の表情が明らかに曇る様を目にするとそうも言えなくなってしまう。「うん…」よく耳にする、煮え切らない返答だ。一体何が悪いのか。
 主は時折、何か言いたげな眼差しで俺を見つめる。おそらく俺に対して不満があるのだろうことはわかる。しかしそれを解消させる言葉は自分の中になく、目を逸らすか、気付かないふりでやりすごしてしまう。難題に向き合うような苦々しい表情を浮かべる彼女のために、彼女が欲する言葉を紡げない。俺は彼女のためにこそなりたいのに。





 気付くと、辺り一面紫の世界にいた。本丸の庭にも似たこの場所は空や地面や草木などもあるようだが、いつも目にしている青や茶や緑の色などはなく、どこもかしこも紫一色の色彩だった。染色には疎いためこの光景がどういう状況であるのか形容できないが、兎にも角にも、あらゆるものが紫で塗りたくられていた。
 一通り辺りを見回し、眉根を寄せ、理解する。これは夢だ。
 人の身を得てから時折見るようになったこの現象で起こる内容は様々だが、毎度ろくなものではない。しかし、だからといってどうともなく、他の奴らと比べ自分がいわゆる「悪夢」と呼ばれる類の夢を見ることが多いと知ったところで、何かを感じることもなかった。良し悪しなど構うまい。所詮夢など、現実と何の関係もない。心をわざわざ砕く必要もない。

 ふと、遠く、「海」と形容するのが適切であろう紫の流動体に浮かぶ何かが目についた。それは色彩を持ち、紫だけの光景の中、どうしたって目を惹かれる存在だった。――なんだ?警戒しながら目を凝らす。波に揺られ、徐々に沈んでいっているようだ。
 その正体が己の主だと認識した途端、冷水を浴びせられたような錯覚を覚える。気付けば駆け出していた。なぜ主が。海、沈んでいる。このままでは。夢だ。理解できている。だが、だからといってこんなことは。
 海へと構わず足を突っ込む。そこで気がつく。海水に見えていた流動体は、すべて数珠の玉だった。遥か地平線まで続く玉の海へと、主は今沈んでいっているのだ。
 させるか。無我夢中で掻き分け近づく。思うように距離を縮められない。焦りから汗が滲む。いくら玉に埋もれても、不思議と痛みはない。不思議も何も、ここは。


「主」


 今声を出していただろうか。夢の中では発声すら心許ない。不自由だ。不便極まりない。思わず舌打ちをする。玉の海に完全に沈んだ主の腕を手探りで掴む。その瞬間、わずかに相手の腕に力が入った気がした。構わず力任せに引き上げると主が顔を出す。目を閉じている。眠っているのか、呼吸はしているようだった。自然と、安堵の息が漏れた。沈まないよう抱き留め、嫌に騒ぐ心臓を落ち着かせながら、口を開く。


「――」


 声は出なかった。知っていた。自分はこの人にかける言葉を持ち合わせていないのだから当然だ。眉をひそめ、歯を食いしばり、何かから隠すように強く抱きしめる。

 こんな夢は馬鹿げている。





 日が完全に沈み、月が煌々と照らす庭を横目に縁側を歩いていく。空は澄んでおり、月明かりだけでも辺りを十分目視できるほどだった。迷いのない足取りで目的地へと向かう。
 昨日に続き近侍としての一日が今日も終わる。最後に主の就寝を確認して自分も休むつもりだった。明日は隊長として出陣する任務を仰せつかっている。失敗は許されない。主の期待には必ず応えてみせる。それが、それこそが、主のそばにいる俺の存在理由だ。
 今日、主は一度も本丸から出なかった。なるべく気にかけてはいたが、どうやら眠ってもいないようで、自室での執務や、馬当番畑の手伝いをしていたらしい。だから日付も変わるこの時刻では、すでに就寝しているだろう。そうであったとしても、主の様子を確認することは近侍として重要な役目だった。
 曲がり角を左折すると主の部屋に続く廊下に出る。驚いたことに、部屋にはまだ灯りがついていた。障子越しに縁側へ漏れるそれにほんの一瞬、足が止まりかける。しかしすぐに同じペースで歩を進める。……珍しい。霊力を常に消費しながら生活する主は、時間を問わず眠りに誘われるため不規則な生活を余儀なくされる。まさか、日中一度も眠っていないにも関わらずこの時間まで起きていられることがあるとは。
 ならば夜のあいさつだけをして下がろう。もしかしたらすでに眠っているかもしれない。布団に入り損ねていたらお運びしなければ。閉じられた障子の前に立つ。
 微かに、物音が耳に入る。嫌な音だ。途端、見えない何かに急き立てられるように、声を発する。


「主。少しよろしいですか?」
「うん。どうぞ」


 思いの外流暢に返ってきた反応に戸惑うも、「失礼します」それを悟られぬよう障子を開ける。
 主は鏡台の前に立っていた。天板には、昨日見た木箱が置いてある。それを視認したのち、再度主へ視線を寄越す。
 こちらを向いた彼女の首には数珠が下げられていた。三重にしてようやく臍辺りで折り返す、長い、紫色一色の数珠。目撃した瞬間、背筋が凍りついた。悪寒がする。


「主、それは」
「あ、やっぱりつけて寝ようと思って」
「……なぜ、」
「ごめん、長谷部を信じてないわけじゃないんだけど…気の持ちようってことで、使っておこう……て……」


主はかろうじてそう述べると、一度、大きなあくびをした。瞬きを繰り返したのち、眉をひそめる。しかしながら目には覇気を感じられず、どう見てもまどろんでいる様子だ。彼女自身理解しているようで、敷かれた布団へまっすぐ歩み寄り、その上で膝をついた。自分も、招かれてもいないのに彼女のそばへ寄り、畳に片膝をつく。
 主の首から数珠が垂れる。ジャラジャラと耳障りな音。早く取り除かなければ、と思わせる。
 何が魔除けだ。主と正反対の存在。主が身につけるべきものではない。


「昨日怖い夢を見て…」
「怖いとは、どんな」


 主の横顔は今にも眠りにつきそうだった。このまま寝かせてよいのか。また怖い夢を見るのでは。夢など、良かろうが悪かろうが俺は一向に構わないが、主の見る夢だけは、良いものであってほしい。
 そう想う心は自分の内に確かに在るのに、この期に及んでなお、石や御神刀に頼る手段を選べない。自分が、自分こそがそばにいたい。だが、自分には夢を守る力はないと、わかっている。


「最初は安心して眠ってるんだけど、途中から何かに引っ張り上げられるの……怖いのに、わたしは何もできなくて……意識はあるのに身体の自由がなくて、一度捕まったら何もできない…」


 主はおもむろに目を閉じ、項垂れた顔を両手で覆った。深く呼吸をしているのがわかる。入眠前の呼吸には覚えがある。上下する肩を見下ろし、自分はやはり指一本動かせない。


「……」


 何も答えられない。眼前には、昨日夢で見た情景が異常なほど鮮明に浮かんでいた。主を引き上げる自分の手。目を閉じたままの主。俺に夢で主を守る力はない。ならば、主の腕を掴んだ俺は何だというのか。
 違う。嫌が応にもわかる。だが、認めたくない。

 ゆっくりと、主の力が抜けたように前屈みになり、やがてバランスを崩しこちら側へ倒れる。咄嗟に受け止める。彼女の体勢が楽になるよう抱え直すと、自分にもたれかかる主が、腕の中でうっすらと目を開いた。
 ぼんやりとした眼差しのまま、俺を見上げ、それから、緩慢な動きで手を伸ばす。指先が、手のひらが、俺の頬へ触れる。それだけで呼吸が止まる。彼女を凝視したまま動けない。ひやりと冷たい指先が、撫で、やがて離れる。


「そんなに引っ張りたいなら、ちゃんとわけを言葉にしてくれたら、考えるのにね……」


「何も言ってくれないから怖いんだよ……」やんわりと、笑んだ表情で俺を見つめていたのだろう。しかし俺は目を見開いたまま見下ろすばかりで、反応することができなかった。
 主が目を閉じる。身体の力が完全に抜けたように感じる。今度こそ、朝まで目覚めることはないのだろう。すぐそばの深い呼吸音が、静まり返った部屋の中、確かに耳に届く。
 思考は、まるで熱に浮かされているようだった。およそ冷静とはいえない支離滅裂な言葉があちこちから降ってくる。わかっている。主が欲している「わけ」は言葉にできない。あなたに尽くす。あなたのためならば何でもしてみせる。死ぬときはあなたのそばがいい。硬直する指先、逸る鼓動、震える呼吸、これらをすべて忠誠心と形容し、その言葉だけを持って、あなたと向き合っているのだから。

 主の首に下がる数珠が、居住まいを正すように小さく音を立てる。無意識に、臍の上に乗っているそれを掴む。ただの玉だ。こんなもの、俺の何になると。力一杯握りしめると、玉が手に食い込む。鈍い感触だが、痛覚はある。
 握り込んだまま、拳を眉間に当てる。夢は、現と同じだというのか。ならばなおさら、自分がこの人にとっての魔なのだとは、認めたくなかった。



(title by 金星