うめいの遺書


素直 お人形 目を覆う


 三日前からの雨が上がり、久しぶりの乾いた空気を肺一杯に吸い込んだらすっきりした。心なしか屋敷内も澄み渡っているようで気持ちがいい。雨の日も悪くないけれど、お天道様を拝む日だって大切だとしみじみ思う。
 今日の朝ご飯もおいしかった。献立は白米と味噌汁とお漬物と焼き魚。配膳をしてくれたのが膝丸さんだったので、味噌汁に浮かぶ見事に輪切りにされた長ネギを摘んでは、膝丸さんったら包丁の扱いも上手だなあ、と感心していた。もちろん朝ご飯の当番は一人ではないので、ネギを切ったのは他の刀の可能性もある。あとで当番票を確認するのを忘れないようにしよう。ご飯を作ってくれた人にご馳走様と伝えるのは、当然の礼儀だ。
 入れ替わり立ち替わり刀剣男士のみんなが朝食をとる様子を眺めながら完食し、片付けたあと縁側を歩きながら息を大きく吸う。おいしい朝ご飯で膨らんだ腹をさらに一回り膨らませる。ふう、と吐き出す。
 とある時代の山奥に構える本丸は静かなもので、葉と葉が擦れあう音、鳥の鳴き声、自然と耳に入ってくる音のなんと心地よいことか。あまりに心地よいものだから、自分が本当は違う時代の人間であることの、危機感とか罪悪感とかが、正しくどうあるべきなのか、だんだんと風にさらわれて、わからなくなって、いっそ全部許されたくなる。全部許されて、全部わたしの思い通りになるとしたなら、それこそ、神の所業というやつだ。自分じゃあありえない。自嘲、諦念、わからない。変な心持ちで、誰も見ていないのに、ふっと笑う。ぴぴ、とどこかで小鳥がさえずる。
 近侍の加州くんの立ち合いのもと、政府から送られてきた戦果を受け取る仕事をこなす。届いた資源を必要な場所にあちこち置いて回り終え、最後、じゃ、と彼が手を挙げる。今日加州くんは午前中、長谷部たちと手合わせをするらしい。わたしは一日事務仕事だ。晴れの日にもったいなかったかもしれないと、始める前から後悔している。「それ、どこに飾るの?」「棚かなあ」「ふうん、そ」そんな話をして別れた。
「それ」を両手で抱き抱えながら、ぺたぺたと自室兼執務室へ戻る。今日は届け物が多かった。一日一回届く戦果と一緒に、通達や贈り物が混ざっていることがある。今日は通達が三通と、抱えられる程度の箱が一つ。何かは、送り主が実家と聞いてすぐにピンときた。早く開けて飾りたい。それに、見せたい刀がいるのだ。


「あ、長義くん」


 廊下を歩いていると、広間から出てきた長義くんと鉢合わせた。今この場に時計はないけれど、感覚的には朝ご飯の時間帯が終わったといった時刻だろう。本当に、今しがた終わったくらいだ。わたしじゃあるまいし、寝坊助な刀じゃあないのに、珍しい。内番服に身を包みラフないで立ちをしている彼は、目を丸くして立ち止まったわたしに、「やあ、おはよう」と微笑む。身支度は整い、思考はキリッと明瞭そう、目もばっちり開いている、いつもの長義くんだ。
 じゃあ絶対違うなと確信しながらも、形式美のように、今ご飯?と聞いたら、「違うよ」と口だけで否定される。じゃあ何してたの、と聞く前に、長義くんが一歩近寄る。


「持つよ」


 目の前に立つ彼が少し屈んだと思ったら、するっと、わたしの腕の中にあった箱を両手で挟んで持ち上げた。あまりに自然な所作だったものだから、ぽかんとほうけて、それから、すっかり感心してしまう。長義くん、荷物を代わりに持ってあげることを普段から当然のようにしている刀なんだな。普段から、というのは、監査官時代も含まれているのだろう。だって人の形を得てからって、そう長くはないはずだ。
 人として長くない長義くんに、人としての振る舞いを教えてもらうことはよくある。ついこないだだって――と回顧に耽りそうになる頭を、「軽いな」の声が引き戻す。見上げ、彼の伏し目を下から捉える。……重いと思って代わってくれたんだ、親切心にむずむずと口角が上がってしまう。


「どこへ運ぶ?」
「わたしの部屋」
「了解」


 台詞がかった口調で応え、進行方向へ歩き出す。「ありがとう」声をかけてから、背中を追いかける。結局長義くんが広間で何をしていたのか、聞きそびれてしまった心残りは頭の隅へ追いやった。べつに、君を疑っているわけではないものね。
 ぴんと伸びた背中は、歩いているにもかかわらずあまり上下していないように感じる。足元を見ればちゃんと歩いているのがわかるから、不思議だ。そして、一列になって廊下を歩く光景の何とおかしなことか。わたしの後ろにもう二、三人並んでいたら、いよいよくすくす笑われてしまう。他の誰でもなく長義くんが先頭なのがまた面白い。長義くんは親鳥のような趣があるから、ついわたしみたいな人間がついていってしまうのも無理ないだろうな。そのうえで君のことは、ここで顕現させたときからずっと友人だと思っているのだけれど。


「今日は事務仕事をやるんだろう」
「うん」
「手が欲しいのなら貸してあげるよ」
「手伝ってほしい!それに、その箱の中、長義くんに見せたかったの」
「これを?」


 歩きながら箱に目を落とす。白くて軽い箱。入っているものを、見たら長義くんは意味がわかるだろうか。
 おやつの時間には昨日買ったお餅をみんなに配ろうね。のん気な話をしながら部屋に着く。今日はいい天気だし、風もそんなに強くない。二人のアイコンタクトの末、襖を全開にしたまま、さっそく文机の前に座る。机の上には通達三通と、長義くんが運んでくれた白い箱が乗っている。
「開けるね」向かいに腰を下ろした長義くんの返答を待たずガムテープをベべと剥がす。内側に差し込まれた蓋の面を引っ張り出して開けると、漆塗りの赤い入れ物が出てくる。使い古され、光沢は失われている。こんなの実家にあったっけ。また政府の人のお気遣いかしら。あとで返却しなきゃ、いつもすみませんね、と心の中で謝りながら開く。
 この間、長義くんはあぐらをかいたまま、ただじっとわたしの手元を見ていた。白い箱から赤い入れ物に変わり、その上蓋が開けられるまで、少しの興味しかなかったと思う。
 赤い入れ物に敷き詰められた紙の緩衝材を取り出すと、現れたのは日本人形の少女だった。全体的に色褪せたりくすんだりして、年季の入りようがうかがえる。元は花柄の赤い着物だったと聞いている。くるんとつぶらな瞳の人形を目にした途端、それを見下ろす彼の目が見開かれる。予想通り、驚いたみたいだ。ちょっと得意げになってしまう。


「覚えてた?こないだ買い物に行ったとき、人形の話をしたでしょ。似たのが家にあるって」


「これのことだよ。実家から送ってもらった」先週の話だ。ここよりずっと過去の時代へ買い出しに行った際、たまたま人形屋を見つけた。少女を象った日本人形がずらりと並んだ店に戯れに入り、見て回る中で一体の少女が目に留まった。花柄の赤い着物を着た少女の人形を指差し、これ買いたい、と長義くんに言うと、長義くんはわかりやすく眉をひそめ嫌そうな顔をした。刀であるがゆえこういう愛玩品には興味がないのか、しかめ面のまま、「せめて理由を聞こうか」と言った彼に、家にあるのと似ているから懐かしくて、似たのでいいから本丸にも欲しい、家にある物を本丸に持ってくるのは時間がかかる、人形は母が生まれるよりずっと前からあるらしい、わたしその人形に似た着物を持ってる。などと滔々と説明すると、長義くんは乗り気じゃなかった態度をますます悪化させ、「駄目だ」「え」「買うなと言っているんだ。早く戻るよ」わたしの手をむんずと掴んで、店主にあいさつすることもせずさっさと店から連れ出してしまった。そのまま、まっすぐ本丸に帰った。
 あれからもう一週間経った。その日のうちに実家に連絡を取り、あの人形を送ってほしいと伝え、政府の審査を待っていたら、あっという間に一週間経ったのだ。予想通り時間がかかったね。箱に入った少女の額を撫でる。実際目に入れるとますます懐かしい。もう懐かしい物なのだ。家にある物は何もかも懐かしい。


「これはもう古いけど、あの店にあったやつと似てると思わない?同じ人形師の作品なのかな」
「人形師どころか、同じ人形だろう」
「え」


 気付くと長義くんは、先週店に入ったときと同じ顔をしていた。眉をひそめてしかめ面をしている。興味がない、などという次元の話ではない。


「気に入っている割にわからないのか。それで手元に置きたいだなんて、迂闊な人間だと言わざるを得ないな」


 嗜められていることだけは、わかる。意味は、そう、わからなくて、無意識に人形に目を落とす。つぶらな瞳、花柄の赤い着物、似ている、どころか……。こちらを見つめる笑んだ表情、あの日たくさんの人形が陳列された店で、なぜあの子とだけ目が合ったのか、長義くんがなぜ、今、あのとき、そんなことを言ったのか。
 サァッと血の気が引く。背筋が凍り息を飲む。長義くんの言ったことが、十分に理解される。そうか、わたしあのとき、いけないことをしようとしたのか。長義くんが止めてくれなかったら、どうなっていただろう。口を噤む。怒るのも無理はない。当然だ。怒られるのは嫌だ。でも、止めてもらえてよかった。


「いつまで経ってもそんな風だから、君は無神経に俺たちを傷つける」
「ごめんなさい…」


 あの時代の人形なんか特にそうだ。一点物を過去から本丸に持ち帰った場合、まったく別の時代、あるはずのない場所で、あり得ないほど良い保存状態でそれが見つかるおそれがある。量産品は時代さえ気をつければ歴史の修正機能が働いてくれるし、最後は燃やしてしまえば跡が残らないけれど、一点物はそうはいかない。下手したら実家の人形がなくなっていたかもしれないのだ。だから政府の審査も慎重になる。だから長義くんは顔をしかめている。これは好き嫌いの話じゃない。
 適当な言葉が出てこない。軽率だった。手元に置く物は、もっと気をつけなければならない。ましてや自分の家にあるものと同じだと気付けない浅慮さはいけない。こんなわたしに、新しく大切にできるものなどないのだ。
 顕現させた刀の真贋や成り立ちを気に留めないわたしに長義くんはたびたび苦言を呈す。これも同じだ。こういうところが彼の癇に障る。ふう、と腕を組んだ長義くんに、おそるおそる顔を上げる。


「素直でよろしい」
「……お、怒らないの?」
「君は怒って伸びる人間じゃないからね」


 腕を組んだまま、息を吐き肩の力を抜く長義くん。釈然としていないながらも、怒りが目に見える風でもない。そもそも怒っていたのかも定かじゃない。嗜めていたのは事実だろうけれど。
 少なくとも彼は、わたしを伸ばそうとしてくれていた。浅はかな審神者でごめんなさい。申し訳なく思いつつ、ありがたい気持ちになる。丸まった背筋のままおずおずと見上げると、それには気付いていないのか、伏し目の長義くんは何かを思い出したかのように表情をみるみると渋くしていく。


「伸びないどころかあからさまに距離を置いてくるからな、君。面倒なんだよ。この距離感に戻すにも時間がかかるし」
「そんなはっきり言わなくても…」
「俺も素直なもので」


「すまないね」少しもすまなくなさそうな長義くんはニヤッと口角を上げる。わたしもまったく傷ついてなどなく、苦笑いで返してしまう。
 長義くんの言うことに心当たりはあった。実際、本当に怒られたらそうしていたに違いない。でも、わたしがあからさまに距離を置いたとき、元の距離に戻るまでの時間をわずらわしく思う長義くんは、なんだか本当に人間みたいだ。面倒くさくて「ごめんね」。肩をすくめて口にする。
 文机を挟んで真正面に座る長義くんが口を閉じ、目を細める。それからおもむろに、こちらへ手を伸ばした。眼前に迫る黒い右手を、拒絶することなく受け入れる。手のひら全体がわたしの両目を覆う。視界は黒で覆われる。まぶた越しの眼球を長義くんの指先が撫でる。まるで、おまじないでもかけているかのような手つきだ。目を開いた途端、知らない世界が広がっているかもしれないと思わせる。
 それから、ふわっと香る。知らない世界の匂いなんかじゃなく、至極馴染みのある、シャボンの匂いだった。――あ。
 手が離れてから、目を開く。目の前には、こちらをじっと見つめる長義くんがいる。


「この瞳でよく審神者が務まるものだと、いっそ感心するよ」


 ここのことはもうよくわかっているだろう長義くん、よその内情も知っているだろう彼からしたら、未熟で軽率なわたしなんかが審神者として働き、多数の刀を顕現させていることは不思議なことなのかもしれない。でも、これでも、いろいろできてるでしょう。それこそ長義くんだって知っているでしょうに。


「監査官さんにも認められた審神者だよ」
「そりゃあね」
「あと、自分が顕現させた刀かどうかもわかるよ」
「うん、よろしい」


 長義くんは気取ったように言ってから、いや、と我に返って、不意をつかれたように破顔した。「最低限のことすぎないか」口を手で覆い肩を震わせる長義くん。わたしも得意げに笑う。「……あ、そうだ」いけない、忘れるところだった。


「長義くん、朝ごはんご馳走様でした。おいしかったよ」
「え?」


 ピンと来ていない長義くんへ、朝ごはん、と繰り返す。今朝の膝丸さんの相方は長義くんだったのだ。あんな時間に台所に続く広間から出てきたのはそういうことだ。すっかり理解したよ。
 目を丸くした彼はそれから、ハッと何かに気付いたように自分の手のひらを見下ろした。もしかしてネギ切ったのも長義くん?と問うと、彼は苦々しく顔をしかめたまま、まあ、と曖昧に肯定した。


「そっか。上手だね」
「……当然だろう」


 手をぎゅっと握り込んで苦笑い。悔しそうでもある。もしかして本当に隠していたのだろうか。当番表を見ればすぐにわかるのに。いや、だからこそ、見てないのに言い当てられて、据わりが悪いのだろうか。長義くん、本当に素直な刀だ。悪い気はしないけれど。
 長義くんから目を離し、人形に目を落とす。この子に罪はない。宣言通り棚に飾ろう。見るたび望郷の念に駆られて、そのうち、本丸の一部になる。ここはわたしの大切なものでいっぱいだ。そう、未熟だろうが迂闊だろうが、大切にできるものがないなんてことはない。


「……とにかく。審神者として、君は誠心誠意、俺たちを大切にするんだよ」


 目線を上げ、長義くんを見つめる。依然バツの悪そうな彼へ、はっきりと頷く。それだけは、呼吸が止まる最後の瞬間まで、努めたいと思っているよ。



(title by 金星