れたすれ違い生活


とびら 眩い 特別な



 寝室の扉が開く音がした。横にスライドさせるタイプのものだから開閉音は勢いで調整できる。リビングに居ないわたしが此処に居ると気遣って、幸男が何もかも最小限に留めてくれているのがわかる。基本的に素早く身をこなすもののその動作が全て洗練されてはおらず、がさつな一面が覗くことの方が多い彼が、少し開いた隙間に身体を滑り込ませてゆっくり扉を閉めることは基本的にあり得ない。帰宅した彼を出迎えなかったわたしが寝ていると思ったのだろう。
 その行動に胸が熱くなるよりも先に目が熱くなって、暗闇の中で殻に閉じこもったことを後悔した。寝室の電気を点けずにベッドに近づいてくる気配を感じながらそれは布に染み込んだインクのようにじわじわとわたしを侵食していく。でも、幸男と面と向かって話すことが怖かった。不安だった。

 所謂、すれ違い生活が続いた。

 職業柄拘束時間が長い幸男は、今年の異動で更に家にいる時間が減った。独身は平気で市外へ飛ばされてしまうらしい。反してわたしはシフト制だ。早出から夜勤までこなしている。加えて何人か職員が辞めてしまった関係で人手不足故に、買い上げしてまで仕事に行っている。休みが減るのは嫌だけど給与が弾むなら、と思って自分で選んだことで、将来のために少しでも多く貯金をしておきたかったのだ。
 幸男の異動がわかったのはその後で、生活リズムが合わなくなることはわかっていた。わかっていたから、短時間でも顔を合わす時はあいさつでもなんでも言葉を交わそうと決めていた。おはよう、行ってきます、行ってらっしゃい、ただいま、おかえり、お疲れ様、おやすみ。こんなにもわたしと幸男の関係を示す言葉があるのに、いつからかそれも減ってしまった。朝から晩まで連日勤めて、疲労の色を滲ませて帰って来る幸男を見れば見るほど、家でも気を遣わせるのは違うかな、と思って声を掛けづらくなってしまったのだ。これではただの他人だ。当たり前だった日常が塗り替えられて非日常になった途端、息の仕方を忘れた感覚に陥った。
 どうしよう。早く言わなきゃ、謝らなきゃ。でも疲れてるかもしれない。眠くて仕方ないかもしれない。やっぱり明日、と忙しなく選択肢ばかり増やして悩んで時間稼ぎをしようとするのはわたしの悪い癖だ。こうしている間にも、背中側のマットレスが少し沈んでシーツの擦れる緩やかな音が小さくなっていく。寝ちゃったかな、やっぱり寝たフリなんてしないで早く言えば良かった。明日早起きして言おう、でも出勤前に気分を下げるようなこと言わない方が良いかもしれない。どうしよう、どうしよう。幸男と違ってわたしは自分のことばかりだ。堂々巡りをしているうちに軌道がズレて、後悔が押し寄せて自己嫌悪が始まる。

「──起きてんのか」
「っ!」

 自分のことばかり考えていたから、もちろん真後ろから聴こえてきた幸男の声に驚いて肩が跳ね上がった。返事をしたも同然の反応で、その上で背中を向けたままでいるほどわたしも薄情ではない。寝返りを覚えた赤子よりも遅く、のそのそと180度身体を回転させると、お風呂上りの匂いが強くなった気がした。「豆電球にして良いか?」「うん」ピッという控えめな音とともに保安灯が点いて、ぼんやりと輪郭が浮き出た幸男と目が合う。

「……おかえり」
「ただいま」

 「もうおやすみだけどな」嫌みでもなんでもない、何ならその言葉を引き出したのは自分だと言うのに、ツキンと胸に小さな針が刺さった痛みがした様な気がした。引いていた熱がまたぶり返して、ついには溢れた。

「お、おい。どうした……!?」

 当然の反応。突然至近距離で彼女が泣き始めたら驚くだろう。

「待って、ちょっと待って……ごめん」
「ああ……」

 寝巻の袖を引っ張って顔にあてる。そのままもう片方の手でベッドボードに置いてあるティッシュを手繰り寄せてから数枚引っこ抜き、塞き止めている袖と交代させる。水分を含むとすぐに面積が減ってしまうし、都度差し替えなければいけないと思うと塞き止める役割にはふさわしくないようにも思えた。
 待ってって言ったのに。ぎこちなく背中を摩ったり、トントンするのを繰り返していてどちらが最適解かわからないといった気持ちが背中に伝わってきて、憎らしさと愛しさが綯交ぜになってよくわからなくなる。でも、涙が止まらないから多分後者が勝っている。おかげで泣き止むのに時間が掛かってしまった。



「幸男がくれたコップ、割っちゃった」

 ティッシュをどれだけ引っこ抜いたかわからないぐらいで漸く口を開く。
 「お前っぽいなと思って」わたしこっちにいるけど? と突っ込みたくなるような目線でそう言いながら、差し出されたマグカップ。誕生日でも記念日でも何でもない日に突然現れたそれは、何でもない日だからこそ特別なものに思えた。

「ああ、あれか」
「せっかく買ってくれたのにごめん」

 彼と目を合わせて話したいが、散々泣いて腫れた目を、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を晒すのはいくら視界が不明瞭とは言え晒す気にはなれない。

「それで落ち込んでたのか?」
「うん……」

 だってまだあれから半年ほどしか経っていない。突然で、唐突で、あっけない終わりだった。

「怪我してねえか?」
「大丈夫」
「なら、良い」
「良くない……」
「良くないって……じゃあ、どうすんだ?」
「…………わかんない」

 幸男が腕枕から肘枕に体勢を変える。彼の言う通り、どうすることも出来ない。そのコップはもう、次にあるべき形にしてキッチンの隅に置いている。特別なものと豪語しておきながら、割れて形を変えた途端に牙を剥いたマグカップを不燃ごみと認識したことに矛盾や悲しみを覚える。だからだろうか、後ろめたさや罪悪感が今も湧き続けているのは。
 幸男の問いに上手く答えられず、鼻水を啜る音が気まずく寝室に響く。啜ってすぐに鼻をかんだ。

「……久しぶりだな、こうやって話すの」
「……うん」
「まあ、その……なんだ。気にってた物がダメになった時の気持ちもわからなくはねえけど、…………話すきっかけになったと思えば良いんじゃねえか?」

 「あんまり物事をマイナス的に捉えるなよ。っつーことでこの話は終わり」早口で捲し立てて犬を撫でるみたいに、頭をぐしゃぐしゃに撫でてきた。多分、自分らしくもないことを言って照れているのだ。明言はしないけれど、幸男も最近のすれ違いに何も感じていない訳では無かったらしい。
 これからもすれ違う生活は続くだろう。あいさつすら交わせない日だってきっとある。幸男の状況を勝手に推測してわかった気になって、気遣える彼女を演じたところで今回の様に息の仕方を忘れるくらいなら、派手にケンカをしてでも気持ちをぶちまけて確かめ合う方がずっと良い。明日はわたしが休みだから、早速「おはよう」と「いってらっしゃい」を言おうと決心する。
 ここでふと、そういえばまだまともに彼の顔を見ていないことを思い出す。せっかくこうして久しぶりに会話ができたというのに、このまま顔を隠しているのは勿体ないと思えた。先ほど泣き顔を晒すのは嫌だと駄々を捏ねていたことが嘘みたいな心替わりに自分でも苦笑してしまう。

「ゆきお、」
「なんだ?」
「……ありがとう」

 保安灯のおかげで目が慣れたとは言え、視界は黒と橙色の二色のみだ。モノクロの世界よりもさらに明暗の線引きがわかりにくい中で、幸男と目が合う。

「おう」

 暗がりの中、短く返事をしてくれた彼の笑顔は眩いものだった。



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