んでもないよる


虚ろな 穏やかな 空しい


「まだ起きてたんですか」と声をかけると、ヒュースさんは肩越しにちらりとこちらを振り返って、すぐに首を元に戻した。「そろそろ部屋に戻る」と返された言葉は淡々として、感情がいまいち読み取れない。

「お前はどうしたんだ」
「ちょっと外に出ようと思って」

彼が座るソファーに近づき、上からその手もとを覗き込む。握られたタブレットには、なんとなく見覚えのある映像が流れていた。きっと次のランク戦に向けて予習していたのだろう。「そうだ」わざとらしい声でそういうと、ヒュースさんはまたこちらを見上げるように振り向く。

「お散歩行きませんか」
「……断る」
「夜道危ないし」
「トリガーがあれば並の人間なら返り討ちにできるだろう」
「コンビニで肉まん買ってあげますよ」
「食い物で釣るな」

言葉に反して、彼の手はそっと動き、画面上の戦いを止める。その様子を見て、てっきりついてきてくれるのかと思ったら、私がソファーを離れてもヒュースさんはそこから動かなかっった。

「……きてくれないんですか」
「行くなんて言ってない」
「えー」

じりじりと後ろ向きで歩いて、リビングの出入り口まで辿り着く。微動だにしない背中に、「ねえ」だとか「肉まん」だとか呼びかけてみる。ため息をついて一度扉を通り抜け、それからまた素早くリビングに戻り「ヒュースさあん」と一際大きく声を上げる。ヒュースさんは諦めたように、私のそれよりも深いため息をついて、低い声で「わかった」と答えた。


暦の上では春といっても、3月の夜は冬と変わらない。ダウンを羽織って出てきたが、ヒュースさんは換装したこともあって些か寒そうな出立ちだった。思ったまま「寒そう」と呟くと、生真面目に「気温は感じない」と返される。
支部近くの川沿いの道は、私と彼のほかに誰もいない。ぽつりぽつりと等間隔に道を照らす街灯は白々しくて、その反対側には丸裸になった桜の木が並んでいる。
「もう少ししたら桜が咲きますね」と、ちらりと視線をやって指し示す。ヒュースさんはいつものいまいち何の色も見出せない表情で、「さくら?」とおうむ返しに訊ねた。

「そっか、ヒュースさんは知らないのか」

彼がここにきて初めての春だ。「桜はですねえ、春に花が咲くんです」と言うと「そうか」とだけ返される。こんなに特定の花が咲くのを待ち侘びる民族は日本人くらいだと聞いたことがある。この感覚はヒュースさんには理解しにくいものだろう。

「日本人はみんな桜が好きなんですよ」
「そうなのか」
「開花予報を全国的にニュースで取り上げるくらい好きなんです」
「……確かに随分な扱いだな」
「暖かくなるとその枝だけになってる木が全部花で埋め尽くされて」
「……」
「それでその下で宴会をするんです。花見ですね」
「……変わった風習だ」

言われてみればそうかもしれない。満開の桜の下に座るヒュースさんを思い描きながら、「ヒュースさんもやりますか」と言うと、彼は確と前を見据えたまま、歩調も緩めず「いい」と簡潔に答えた。そう言うだろうとは思ったけれど。「焼きそばとかありますよ」と適当に釣ってみたが、「ふん」という素っ気ない息とも返事ともつかない音しか返ってこなかった。
そのうち、夜道の中にぽつりと光るコンビニの看板が見えてくる。暗がりに浮かんでいる様にも見えるそれにゆっくりと歩みを進めれば、四角い建物が姿を現す。「肉まんあるといいですねえ」と言うと、「別に食べ物に釣られてきたわけじゃない」とヒュースさんの低い声が聞こえた。またまた。駐車場には、高校生くらいのあまり素行のよくなさそうな若い男の子が何人か屯している。ドッと弾ける笑い声を横に、ヒュースさんを先導するかの如く店内に足を踏み入れる。ヒュースさんもその集団をほんのわずか一瞥して、静かに私の後ろに連なった。来客を告げるのんびりしたチャイムが聞こえる。適当に陳列棚の方に歩を進めると、「お前は何を買いに来たんだ?」と後ろから問いかけられた。案外大人しく着いてきているようだ。

「特にないですよ。本当にちょっと歩きたかっただけ」
「……そうか」
「でも来たからにはちょっと見とこうかなって」

とりどりに並んだ菓子類を眺めながら、ゆっくり、ゆっくり、足を遊ばせるように歩いていく。ふらついているようにも見えるかもしれない。きっと迷惑そうな顔をしているんだろう、と思って振り向いた先のヒュースさんは、私なんかよりも棚の方に興味があるようだ。ほんの少し残念に思いながら自分もまた棚に目をやる。そうして歩くうちに、あっという間に店内を一周してしまった。そのままレジに向かい、卓上の保温器を見やると、切なくなるほどスカスカになっている。

「肉まん全然ないですね。しまったな」
「ひとつ残ってるだろう。プレミアムビッグ肉まん」
「高いやつじゃん。ていうかやっぱ食べる気じゃないですか、肉まん」
「お前が奢ると言ったんだろう」
「そうだけども」

気怠そうにタバコを整理する店員に声をかける。すぐ向き直った彼はやはり気怠げなまま「はい」と小さな声で返事をした。

「このプレミアムビッグ肉まんひとつ」
「はい。お会計258円になりまぁす」

財布からごそごそと小銭を出し、ほかほかの肉まんと交換する。「あざあしたぁ」という緩い声を背に、ずっと私の斜め後ろをキープしているヒュースさんを連れ立って歩く。まだまだ居座る気らしい男の子たちの横を抜けて、「ヒュースさん、半分こしましょう」と声をかける。

「……構わないが」
「えっ意外、全部寄越せって言うかと思った」
「お前が思うほど食い意地が張っているわけじゃない」

冷えた指先に肉まんは温かすぎる。「あつ」と呟きながら二つに割ると、もわりと白い湯気がため息のように空に浮かぶ。熱さゆえに慌てて割ったせいか、サイズのバランスが悪くなってしまった。ため息ともなんともつかぬ声を漏らし、大きい方の片割れをヒュースさんに差し出す。ヒュースさんは一度目を瞬いたあと、「いいのか?」と端的に訊ねた。

「食べたかったわけじゃないので」
「……ならもらうが」

彼の大きな手がまだ湯気を漂わせる肉まんをさらっていく。あんぐりと開いた口から、肉まんとお揃いの白い息がもわりと浮かんで、代わりにその中へ片割れが収められていく。
その一連の動きを眺めながら、私もふと思い出したように手の中の半分を齧った。ヒュースさんはなんてことないように口へ運ぶのに、私にはずいぶん熱く感じる。

「はふ」
「……」
「おいひいですか?」
「食べながら喋るな」
「えっもう食べ終わったの」

何も答えずに、ヒュースさんはすたすたと歩いていく。私はちまちまと肉まんを食べながら、今度は彼の斜め後ろを着いていく。ようやく食べ終わって「プレミアム感ありました?」と訊ねたら、「通常のものを知らないから分からない」と、やはり特に色のないように思える声音で返される。

「じゃあ今度また肉まんたべましょ」
「……構わない」
「やったー、次はヒュースさんが奢ってね」

追いついて見上げた横顔は、街頭に照らされ声の温度よりかは暖かな色を湛えていた。肉まんのおかげかもしれない。胸の内がほかほかとしているのを感じる。きっと肉まんのおかげであろう。