見の瞼


格好いい 瞑る 透き通る


 演劇の街、天鵞絨町。この町で生まれ育った私は、演劇が嫌いだ。
 嫌いというのは語弊があるかもしれないが、少なくとも、極力見たくない程度には苦手だった。
 街を歩けば、あちらこちらに芝居の告知ポスターが貼られ、駅前ではストリートアクトが行われ、あちこちの道端では公演のビラ、劇団員募集のビラが積極的に手渡される。
 高校を卒業するまではこの街に居なくてはならない。大学に入学して他県へ出れば、この街から離れてしまえば、きっと。先月ようやく高校三年に進級し、あと一年の辛抱だと、そう思っていた。
 辛抱の日々の中で、特に月に一度、耐えなければならない期間がある。
 父と母が二人で支配人を務める小劇団の、公演の手伝いだ。手伝いといっても大したことはなく、やってくる客のチケットを見て、もぎりをする役だった。公演そのものを見る必要はないから、文句も言わず手伝っている。

「俺が代わる?」

 五日間の公演の、三日目のことだった。会場の十分前、入口でチケットを見る為の小さなカウンターの後ろに立ち、支度をしていたら、後ろから声がかかった。
 聞きなれない声に振り替えると、父でもなく、母でもなく、見慣れない人が経っていた。見知らぬ人ではない。今回の公演で、客演として他所の劇団から来ている役者の一人だった。

「え、」
「やるの嫌そうだから」

 澄んだ声は淡々と、事実を述べるように言う。今、いや、昨日も一昨日も、私はそんなに面倒そうに作業していただろうか。たとえそうだとしても、舞台に立つ役者にさせる仕事ではない。

「いえ、その、気にしないでください」
「そう?」

 彼はなぜか小脇に抱えた袋から、マシュマロをひとつ取り出すと、むぐむぐと口に入れた。見る限り、舞台用の衣装に着替え終わってヘアメイクまで済んでいるようだった。もうすぐお客さんが入ってきてしまう。天鵞絨町では舞台俳優なんて珍しいものでもないが、早く控室に戻ってもらうに越したことはない。

「嫌だとしても、仕事はきちんとします、大人じゃなくっても」
「俺、そんなこと言ってないよ?」

 不思議そうに彼はくるりと目を丸ませて小首を傾げた。私がなにか言う前に、のっそりと踵を返して去っていく。歩きながら、マシュマロをまたひとつ袋から出して口に入れていた。
 傍らの壁に堂々と貼られたポスターを見上げる。“客演:御影密”キャストの一覧にその名前はしっかりと印字されている。



 公演後のロビーは、公演前と比べて圧倒的にしんとしている気がする。
 それはもちろん錯覚で、公演後も劇場内では片付けや明日の準備に奔走している人がおり、控室やそこかしこで公演後の役者がお喋りをしたり、稽古をしたりしているのだが。
 とにもかくにも、しんとしているような気がするロビーで、私は黙々と作業をしていた。公演アンケートボックスを回収し、アンケート用紙を内容別に仕分けをする作業だ。先ほどまでもう一人、古株の劇団員が手伝ってくれていたが、今は人に呼ばれて席を外している。
 す、と手元に影が落ちた。振り仰ぐと、目の前に先ほどまでいなかったはずの人が立っている。しんとしたロビーの中で、その人は一層しんと静かだった。

「お疲れ様です」

 反射で声をかけた。その人――御影さんも「お疲れ様」と平坦な挨拶を口にする。

「何してるの?」
「アンケートの仕分けです。御影さん宛の感想もありますよ」

 仕分けしていた山の一角を指さす。客演のキャストへ宛てた感想にしては、いつもより数が多いような気もした。
 御影さんは指さされたアンケート用紙たちを手に取ると、黙って目を通し始めた。なにか言われるよりも、そうされる方が気楽だった。私もすぐ手元の仕分け作業を再開する。とはいえ、元々規模の大きくない劇団だ。仕分け作業ももう終わろうとしていた。

「君って、舞台の手伝いするのが嫌いなの?」

 アンケートに目を通していたはずの御影さんが、一分も経たずにそう言った。

「そんなに嫌々やってるように見えますか?」
「ううん」

「でも、なんか」御影さんがアンケートから目をあげて、宙を見上げる。「なんか、嫌いなのかなって」

「……嫌いじゃないですよ」
「そうなの?」
「苦手なだけです、舞台を見るのが」

 元々そうだった。舞台を見るのが怖いだけだ。

「ふうん」
「もぎりの仕事とか、このアンケートの仕事も、舞台を観なくて済むから平気です」

 小さい頃は私も舞台に立つんだと思っていた。役を演じられる人間になるんだと、思っていたけれど、その思いは一度の失敗で消え去ってしまった。失敗は怖い。
 苦手から背を向けて目をかたく瞑って、平気なことだけやっていれば人生なんとかなる、なんて思っちゃいないし、父と母は舞台人だし、苦手なものはこの世から消えてくれることはない。
 苦手なことを回避するのは、時には人に「お前はその程度の人間なのか」と馬鹿にされるだろう。だから、苦手を苦手だと口にすることも苦手だった。

「俺は、舞台が好きだし、劇団が好きだから」
「……すみません」
「別に、謝ることなんてない。苦手なら代わってもらえばいい」

 御影さんの目がすっとこちらを見る。透明な目に、見透かされているような気がして、私は口をつぐんだ。今このとき、ようやく、御影さんの顔貌を知ったような気がする。綺麗な薄い色の睫毛が、彼の瞳にかかっていて、透き通る硝子玉みたいな瞳はこちらをじっと見ている。天鵞絨町の舞台役者に格好いい人は珍しくないが、整った相貌は冷たくて静かで格好よかったが、それに突き放されるような怖さもなかった。

「それに、たぶん、楽しめない人を楽しませるのは役者側の仕事なんだと思う」

 手に取っていたアンケート用紙を机に戻して、御影さんは再び踵を返そうとする。「あの、」と言わなくてもいいのに、声が出てしまった。

「明日の公演、私が観て、楽しめますかね?」
「……さあ」

 御影さんは立ち止まらずに歩き去ってしまった。ぺたぺたと、しんとしたロビーに御影さんの歩き去る音が遠のいていく。
 私は仕分け終えたアンケートに向き直って、片付け作業を始めた。五日間ある公演は、明日、明後日で終わりを迎える。明日の公演を、私は観るだろうか。あるいは、明後日の公演を。きっと、観ないだろうけれど、高校を卒業する前に、御影さんの舞台を観てもいいかもしれない。そう思う。



(title by 約30の嘘