グラウンドで走り込みかトレーニングルームで筋トレかの二つの道を提示され、迷っていると「ない筋肉鍛えてもな」と心操くんに助言してもらったので、まず走り込みで体力をつけることに決めた。他のクラスメイトも何人か特訓に参加するようで、全員で八人くらいの名前を聞いた。なんだか自分が場違いな気がして顔が青くなる。それでも辞めることを切り出さなかったのは、頑張りたいという意気込みがあったからだ。
「んじゃ、着替えたら昇降口集合な」放課後、女子更衣室の前で女の子がそう言い、心操くんや他のクラスメイトと別れた。体操服を両手に抱き込み、女の子のあとに続いて入室する。ごくりと固唾を飲み込む。がんばるぞ…!




「とか言ってたくせに自分が忘れ物かよ」
「あはは…」


両手をジャージのポケットに入れた心操くんが不満を漏らす。それに小さくなりながら苦笑いをするわたし。集合場所の昇降口には、言い出しっぺの女の子を除いた全員が揃っていた。心操くんに伝えた通り、女の子は教室に重大な忘れ物をしたらしく、先行っててと言い残して更衣室を飛び出して行ったのだ。突如放り出された気分になり困惑したわたしは、けれどあとのことを考えるとここで待つわけにもいかず、一人おずおずと昇降口に向かったのだった。


「あいつランニングだろ?俺らジムだから先行ってんな」


クラスメイトの男の子がそう言って足を踏み出す。おお、と心操くんが返すと、わたしたち以外の四人も彼に続いて歩いていくようだった。どうやらグラウンドでの走り込みは心操くんとあの子とわたしだけらしい。遠ざかる五つの背中を目にしながら、人知れずほっと息をついた。……よかった。実のところ、しゃべったことのない人たちと一緒に走るのは気が重かったのだ。更衣室からここに来るのだってどれほど緊張したか。心操くんがいなかったら彼らと合流してなかったかもしれない。


、長距離と短距離どっちが好き?」
「えっ…どっちも苦手かな…」
「…はっ」


小さく笑った心操くんに肩をすくめて苦笑いする。「心操くんは?」なんとなく聞き返すと、「どっちかっていうと長距離」と、端的に答えられた。


「…さ、」
「うん、」
「……前より俺らと普通にしゃべるようになったよな」


きょとんと目を丸くする。首裏に手をやり斜め下を見下ろす心操くんを凝視する。「そ、そうかな…?」「うん」即答されてちょっと恥ずかしい。そんなにあからさまに態度に出てたかな…。実際のところ、最近心操くんと話してても緊張しなくなったので、彼の気のせいではないと思う。


「心操くん優しい人だなあって、思ってるので…だからかもしれない、ね」
「……」


俯いて答えると心操くんからの返事はなかった。あの子はまだ来ない。忘れ物じゃなくて探し物だったのかもしれない。日はまだ高いから大丈夫だけど、今日は何時までやるんだろう。もうすぐ七限のチャイムが鳴る時間だ。それよりあとは、未知の世界みたい。放課後遅くまで残るのなんて随分久しぶりだ。
勝己くんは、何時まで残るのかな。勝己くんが帰るまで残ってれば、もしかしたら一緒に帰れるかもしれない。そんな下心も、あったりする。


「……は?」


微かに聞こえた声を脳が処理するより先に、耳へ更に大きな声が届いた。


!!」


ビクッと肩を揺らす。反射的に声の聞こえた方へ顔を向けると、昇降口からこちらに向かって来る姿が目に入った。目を見開く。


「勝己くん!」


勝己くんだ!体操服を着た勝己くんがそこにいたのだ。やっぱりそうだ、勝己くんもトレーニングのために放課後残るんだ!喜びに湧きたつ身体中が彼に駆け寄ろうとする、より先に彼がわたしの目の前で立ち止まった。


「おまえ帰んねえで何やってんだよ」
「えっ…わたしも今日から、頑張ろうと思って…!」
「は?」


片眉を上げる勝己くんはやっぱり全然予想できてないみたいだった。こんな格好でいるんだから、きっともう少し時間があれば勝己くんなら絶対思いついただろうけど、なにせ彼が見たのは今この瞬間が初めてなのだ。だから今からわたしが言うことは、勝己くんにとって意外なことなんだろう。


「体育祭、頑張ろうと思って!」


勝己くんの目が見開かれる。やっぱり、わたしなんかがこんなことを言うのは驚かれるんだ。でも心が期待に満ちてるのは、勝己くんが久しぶりにわたしを見てくれてる気がするからだろう。捨て置かれてる感じはしない。ちゃんと見てくれてる。嬉しい、やっぱり頑張るって決めてよか……


「やめとけ。怪我して泣くのがオチだろ」


え。途端に、背筋が冷える。「…え、…かつ、」「さっさと帰ってろ」ばっさり言い放たれた言葉がダイレクトに突き刺さる。あまりの衝撃に一歩後ずさった。「………、」改めて勝己くんを見る。まっすぐわたしを見る目と合う。意地悪を言ってるわけじゃない、勝己くんはわたしに意地悪言わないもの。つまりその言葉は、至極単純、わたしを鑑みた忠告でしかなかった。


「その言い方はないんじゃねえの」


何も言えないでいるわたしを見かねたのか、それまで黙っていた心操くんが唐突に口を開いた。わたしの肩を後ろへ押し、勝己くんとの間に割って入った彼を見上げる。斜め後ろから見える彼の表情は瞬時に、先週A組の教室の前で対峙した二人を思い起こさせた。嫌な予感が駆け巡る。


「幼なじみが頑張ろうとしてんだから。あんたも背中押してやるのが筋じゃねえの」
「あ?何だてめえコラ」
「何って、のクラスメイトだけど」


「クラスメイトだあ…?」気に食わなさそうに心操くんを睨め付ける勝己くん。先週のことを思い出してるのか、心操くんに対していいイメージがないようだった。
…そういえば、とあることに気付いて内心焦る。そういえばわたし、今までクラスの友達のこと話すとき、友達が心操くんだってこと言ったことない気がする。いやでも、話してたところでって感じかあ…勝己くんもわたしの友達について深く聞いてきたことないから、きっと話したところで気に留めなかっただろう。「まさかてめえがの…」俯いた姿勢のままどきっとする。勝己くんの言葉を遮るように、心操くんが大げさに溜め息をついた。


「とにかく、の邪魔してくれんなよ」
「あ゛?!」
「ちがっ…勝己くんの邪魔、しないから…!」


心操くんの言葉が気に障ったみたいに、勝己くんはいよいよ苛立ちを露わにする。その原因が自分だと思えて落ち着かない、嫌だ怒らせたくない。苦し紛れに伝えた言葉も、勝己くんには響かなかったけれど。


「あの、かつきくん…」
「……勝手にしろ」


眉間に皺を寄せたまま、そう言い放たれる。心臓が嫌な脈を打ってる。再び俯く。息ができない。
……だめなやつだ。言われたら、だめなやつだ。今わたしは勝己くんに見放された。手を離された。勝手にした先に勝己くんはいない。勝己くんの目に入らない。フンと鼻を鳴らした勝己くんが、踵を返したのがわかる。行ってしまう。なんで、こんなつもりじゃあ、……。ツンと鼻の奥が痛み、じわりと視界が滲んだ。


「こんな奴の子分とかが可哀想だわ」


その言葉に勝己くんが反応したように感じたけれど、俯いていたわたしはよくわからなかった。心操くんの言葉の意味もうまく飲み込めない。可哀想ってどういうことだろう。わたし可哀想なのかな。悲しいって、思ってるけど。鼻をすすり、涙を腕で拭う。「……ちっ」立ち止まっていた勝己くんが舌打ちをし、再び歩き出す。本当に離れて行ってしまう。


「…大丈夫?」
「……」


勝己くんの足音が校舎内へと消えたあと。心操くんの問いかけにかろうじて頷く。頭の中では色々なことがぐるぐると駆け巡っていたけれど、心はぽっかり空いてしまったみたいに孤独だった。


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