記憶の中にはいつも勝己くんがいる。


 幼稚園児の頃、勝己くんを中心に集まったメンバーで近くの森に入ったときのことだ。ヒーローの勝己くんと彼の事務所のサイドキックという設定の元、わたしたちは敵の潜む最深部へ向け探検していた。季節は夏、日差しは森の枝葉で遮られていて、そこまで暑くはなかったと思う。
 即興の歌を口ずさみながら進む勝己くんを先頭に、隊列は川に架かる大きな丸太に差し掛かった。わあ、と驚いたのはわたしだけで、勝己くんを始めみんなは臆することなく進んでいく。立ち止まったら置いてかれちゃうし、後ろもつかえちゃう。怖かったけど、思い切って足を踏み出した。前の幼なじみとの距離を開けながら、一歩一歩ゆっくり、足を進める。
 あとどれくらいだろう、と顔を上げる。それと同じタイミングで、先頭の勝己くんがズルッとバランスを崩した。足を滑らせたのだ。ドボンと鈍い音がする。


「かっちゃんっ」
「かっちゃん落ちた」
「おーい大丈夫かー?!」


 驚きすぎてわたしも落ちるかと思ったほどだ。みんなと一緒にしゃがんで下を覗き込むと、勝己くんは川の真ん中で四つん這いになり頭をぶるぶると振っていた。浅い川だったらしく、勝己くんの腰の高さもなさそうだった。


「大丈夫だろ、かっちゃん強えーもん」
「早く上がってこいよー」


「おー平気へーき」こっちを見上げて笑う勝己くん。よかった、大丈夫そう。そりゃそうだ、なんたって勝己くんだもん。強くて何でもできる、わたしのスーパーヒーローだ。わたしなんかが心配しなくたって絶対、だいじょうぶ……。


 でももし、いなくなっちゃったら?


 はたと動きが止まる。途端に、周りの音が耳をすり抜けていく。「大丈夫?たてる?」わたしの後ろにいたはずの出久くんが知らない間に川に降りていて、勝己くんへ手を差し伸べていたのすら、ある風景みたいに捉えるだけだった。
 このときわたしは、今さら、当然な、けれど重大なことに思考を占領されていたのだ。


 勝己くんがびしょ濡れになり、出久くんも靴が濡れてしまったため、この日は引き返してすぐに解散になった。川から上がってから不機嫌だった勝己くんは最後に出久くんとさよならするときも口を尖らせたままで、わたしと二人で家に帰る道のりでも言葉数は極端に少なかった。わたしはというと、先ほど思い至った恐怖に顔を青くしていて、斜め前を歩く勝己くんをやっとの思いで追いかけているだけだった。


!」
「はいっ」


 呼ばれてとっさに返事をする。顔を上げて、自分が俯いていたことに気付いた。勝己くんは、目の前で振り向いて立ち止まっている。


「おまえ何で辛気クセー顔してんだよ!」
「しんきくせー…?」
「暗いって意味!」


 言いながら手を伸ばし、わたしの鼻をぎゅっと摘んだ。そんなに痛くなかったけど、勝己くんの言う通り暗い気分だったので、じわりと涙が滲んだ。すぐに解放された鼻に手をやる。勝己くんは涙目になったわたしに首を傾げていた。強い日差しで勝己くんの服は乾き始めている。わたしもじんわりと汗を掻いていた。こんな光景に、奇跡を感じてしまったのだ。「どうした?言ってみろよ」勝己くんが顔を覗き込む。


「わたしかっちゃんがしんじゃうのヤだから、かっちゃんがしんじゃう前にしにたいの」


 今思えばとっても突拍子なかった。勝己くんがぽかんとしてしまうのも無理ないだろう。彼はそれからすぐに「勝手に殺すんじゃねー!」と背中を軽く叩いた。浮かんだ涙がすうっと眼球に吸い込まれていく。勝己くんが生きてるからまだ泣かない。ずずっと鼻水をすする。
 自分が勝己くんなしでは生きてけないってことは、ずっと前に自覚していた。そのうえで、神さまみたいな存在の勝己くんが、しんでしまうことがあるということに、この日気付いたのだ。勝己くんがしんじゃったらどうしよう。いなくなったら、生きてけない、生きていたくない。


「俺がそんな簡単にやられるわけねーだろ!」


 変わらず自信満々に言い切る勝己くん。彼は将来ヒーローになって敵と戦うところまで視野に入れているのだ。なんて立派なんだろう!暗い気分だったのが嘘みたいに、じんわりと笑顔になれる。うんと大きく頷いた。そうだよね、強い勝己くんがやられるわけないよ。彼の言葉は隅から隅まで信じられた。嬉しくて、気分はぐんとよくなる。「それにそんな心配しなくたって、」勝己くんが前を向きながら続ける。


は俺の――」




 すうっと目が覚めた。昔の夢を見ていたみたいだ。うっすら残る情景や声が思い出せて、なんでか涙がボロッとあふれた。何が悲しいんだろう。泣いている理由も判然としないまま、わたしは布団の中でさめざめと泣いた。

 ああ、あのとき、勝己くんは。





 クラスの話題は昨日の騒動で持ちきりだった。勝己くんの周りにクラスメイトが集り、根掘り葉掘り聞こうとしているのが遠目でもわかる。それを一喝して散らす勝己くん。機嫌は良くなさそう。今日も家を出る時間に合わせて一緒に来はしたけれど、一言もしゃべらなかった。普段ベラベラしゃべるわけじゃないものの、二人に漂う空気は決して軽いとはいえなかった。思い出すと悲しくなって、集団から目を離し、机に伏せてしまう。


(わたしは勝己くんのプライドの足しにならなかったのかな)


 昨日帰ってから考えたことだった。あのとき、わたしの胸ぐらを掴んで責めた勝己くんは、まるで鼻を折られたかのように憤っていた。勝己くんからしたら、無個性の出久くんに余計な手出しをされ、格下のわたしには余計な心配をされ、プライドをズタボロにされたんだろう。突き放すように刺された言葉は、用無しと言われたようでつらかった。
 わたし、勝己くんのためになりたかっただけのはずなのに。応援したくて、出久くんに釘を差すまでしたのに、結局勝己くんに怒られて、何がしたいんだろう。
 ああごめんなさい、うそです。わかってる。全部自分のためだ。わたしはわたしのために、出久くんにあんなことを言ったり、勝己くんの心配をしたんです。勝己くんという枠の中で生きるために、大好きな勝己くんの心配をしたの。


「わたしは勝己くんの……」


 誰にも聞こえないように呟く。あのまぶしいほどの夏の日、勝己くんは言ってくれたのに。





「カツキ速えーって」


 放課後のチャイムが鳴るなり後ろの入り口から出て行く勝己くん。そのあとに続くいつもの友達。わたしはというと、一日中ぼーっとしていたせいで帰りの支度が間に合わず、机の中の教科書をカバンに詰め込んでいる最中だった。


「あ……」


 待って、言おうとした声が出なかった。勝己くんはわたしに目もくれず、廊下へと姿を消してしまう。友達が案じるようにチラッと振り向いただけだった。その彼らも見えなくなり、いよいよ、朝から感じていた気持ち悪さと居心地の悪さに襲われる。座ったまま俯いて、硬直してしまう。どうしよう。冷や汗がでる。誰にも話しかけられない、誰も話しかけてくれない。繋がりがない人みたいにクラスでポツンと浮いている感覚。いいやいっそ、ここにいないみたいな。人は一人じゃ生きていけないって、小学校の授業で習った。その通りだ。勝己くんに嫌われたわたしは、唯一の繋がりを切り離され、圧倒的な孤独感に打ち付けられている。

 やっぱりわたし、勝己くんがいないと何にもできない、


ちゃん」


 パッと顔を上げる。机の前に、黄色のリュックを背負った、出久くんが立っていた。


「あ、あの、えっと、昨日大丈夫だったかなと思って」


 一見すると挙動不審な彼は手を振って、他意はないよと言っているみたいだった。前の入り口から帰ろうとしたついでに声をかけたらしい。けれど、出久くんの席は後ろの入り口から出たほうが早い位置だから、わたしに気を遣って声を掛けてくれたんだと、あとになってわかった。
 出久くんは周りの目を気にしてコソコソしていたけれど、雰囲気自体はどこかすっきりしていた。良いことがあったのか、吹っ切れているように見えたのだ。昨日帰り際にひどいことを言った手前、気まずいかもと思ったけれど、出久くんはそのことをちっとも気にしていないみたいだった。きのう、と無意識に零して、彼を見る。敵に立ち向う勇敢だった出久くん。


「だいじょうぶだったよ」
「そ、そっか、ならよかった」


「……じゃあ、ごめんね、引き止めて」頭を掻きながら軽く手を挙げ教室を出ようとした出久くんへ、とっさに手を伸ばした。勢いよく立ち上がったせいでガタンと机が揺れる。一瞬、クラス内が静まり返って、カッと顔が熱くなった。恥ずかしくて俯く。


「い、ずくくん、!」
「な、なに…?」


 びっくりしたのか出久くんもおどおどしていて、変な二人だ。でも、変でもわたしは出久くんに伝えたいことがあった。掴んだ学ランの袖口をぎゅうと握る。


「あのね、わたしほんとは、高校、勝己くんと……」


 ああ昨日あんなこと言った奴が、何を。バツが悪いのとためらう気持ちで言葉にするのが難しい。最後まで言えず詰まってしまう。けれど、出久くんはわかってくれたのだろう、声のトーンを落として、静かに返した。


「かっちゃんは、怒らないんじゃないかな……」


 僕はキレられたけど……。自嘲気味に頭を掻く出久くんに、顔を上げる。元気づけるためだったとしても、その言葉は嬉しかった。言いたいことが伝わった。それに、そうであってほしい言葉。出久くんはよく見てる、昨日も思った。


「だってかっちゃん、昔からちゃんには甘かったし」


「え、」今度は思いもかけない言葉に目を丸くする。そんなわたしを見て出久くんがハッとした。「ご、ごめん!甘いっていうか…!」あわあわと慌て出す出久くんが何を言おうとしているのか、わたしはなんでかとても気になった。うん、と、わけがわからずとも頷く。それにホッとしたのか出久くんも落ち着きを取り戻して、照れるみたいに小さくはにかんだ。


「その、昔ヒーローごっこしてたとき、二人いつも同じチームだったから…」


「……!」目を、覚まされたようだった。雲間から日が差すように晴れていく。すうっと息を吸うと、眼前が明るくなったように感じた。

 わたしは勝己くんの視界に入りたかった。まっすぐ前だけを見て我が道を行く、そんな勝己くんの目に留まりたいと思っていた。
 でも思えば勝己くんは、わたしが呼んだらちゃんと振り返ってくれていた。暗い顔をしていたら、気付いてくれた。やっとの思いでついていく後ろのわたしのことを、勝己くんはちゃんと気に留めてくれていたのだ。

 ああやっぱり、勝己くんは嘘つかない。

 僕が言ったって内緒にしてね、と口を隠す出久くんにかろうじて頷く。心臓が、滲みわたる歓喜に震えていた。





「勝己くん!」


 全力疾走で通学路を駆け、勝己くんの後ろ姿を見つけたのは家に着くまであと少しといった住宅街の道だった。友達とはもう別れたあとだった。
 スラックスのポケットに両手を入れ歩く彼を大声で呼び止める。ゆっくりと、振り返る。眉間に皺の寄った鋭い目つきがわたしを射抜いた。すうっと大きく息を吸う。


「勝己くん、昨日たすけてくれてありがとう!!」


 ピクッと勝己くんの眉が動いた。勝己くんがどう思っているのかわからない。でも、少なくともわたしは、間違いなく、勝己くんにたすけられたのだ。
「それでね、」勝己くんが何も言わないのをいいことに続ける。本当は最初から思っていた、勝己くんに言う勇気がなかったことを、ついに伝えるのだ。


「わたしも雄英行きたい!」


 身体の横で拳を作る。勝己くんの目が見開かれた。


「ずっと勝己くんのそばにいたい!勝己くんがヒーローになるとこ見たい!置いてかないで!」


 矢継ぎ早に叫ぶと、走ってきたのも相まって息が切れた。心臓がどっどっと脈打っている。破裂しそう。でも、言った。言えた。勝己くんは、どう思っただろう。肩で息をしながら顔を上げる。五メートルほど開けた距離にいる勝己くんは立ち尽くし、呆気にとられた顔をしていた。驚いたのかもしれない。それから、はあと溜め息をつき、ゆらりと振り返った。静かな眼差しが、わたしを見る。


「おまえは俺の一番弱い子分だろ」


 心臓がきゅうと悲鳴をあげる。ぎゅっと口を噤む。でも、苦しいのって聞かれたら、真っ先に首を振る。


 ちがう、これは嬉しくて。


「ンな心配しなくたって置いてかねえよ」


 嬉しくて息ができない。眼球が熱くなる。潤む視界にぎゅっと目を閉じる。もったいない、目の前に勝己くんがいるのに。歩く足音、勝己くんの気配が近づく。あたたかい気配だ。勝己くんはわたしを安心以上の気持ちにさせてくれる。閉じたまぶたの隙間からじわりと涙がにじんで、制服の袖でごしごしと拭った。


「雄英行っていいの…?」
「ヒーロー科じゃねえんだろ。来たけりゃ勝手に来いや」


 デクはぜってえ潰すけど。立ち止まり、ボソリと付け加えた勝己くんに、赤い目を開ける。目つきは鋭いままだったけれど、怒ってない。そっか、駄目じゃないんだ、普通科だったらいいんだ。勝己くんのそばに、いられるんだ。


「う、ひっく、うう……よかったあ〜〜…!」
「泣くなら受かってからにしろっつの」


 両手でわさわさと髪の毛を掻き回される。勝己くんの機嫌も直ったみたいで、余計嬉しかった。やわい笑顔が浮かぶけれどポロポロと涙が止まらない。泣き止む頃には目が真っ赤に腫れてしまっているだろう。それでも勝己くんが触れる手が幸せすぎて、それでもいいと思えた。


「やっぱりおまえの一人立ちはまだまだ先だな」


 勝己くんが満足げにフンと鼻で笑う。
 勝己くん、わたし、一人立ちはできそうにないや。でもしっかりした子にはなりたいから、がんばって、絶対に雄英に合格するよ。それで勝己くんの目の届く範囲にいるんだ。わたしがしっかりした子になるの、ちゃんと見ていてね。今はそばに置いてくれる理由が、一番弱い子分だからってだけだとしても、いつか絶対に。
 だってわたしにとっては一生の恋だもの。諦められない。最後は笑顔のハッピーエンド。


 大好きな勝己くん。わたしもずっと夢があるんだよ。君のすきな人に夢見てる。


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