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安室さんが呼んだ警察官による事情聴取ののち、わたしと安室さんだけ先に帰宅許可が下りた。交番で何度もお礼を言う南くんと別れ、安室さんの車を停めたコインパーキングまで戻る。時間は八時を過ぎていた。季節のおかげで外の気温は夜でも丁度よく、十分くらい歩くなんて屁でもなかった。安室さんと一緒に帰れるならなおさらだ。あと三倍歩いたっていい。


「よかったですねー無事解決して」
「そうだね」


二人並んで商店街の大通りを歩いていく。あとのことは警察が何とかしてくれるだろう。元々南くんは警察沙汰にしたくなくて安室さんに頼んだ節があったけれど、わたしが襲われてしまった以上簡単に見逃すわけにはいかなくなってしまった。といっても、収集をつけてもらうために呼んだだけであって、被害届はわたしも南くんも出すつもりはなかったのだけど。わたしも煽ってしまったし、南くんも同窓生のよしみで胸が痛んだようだった。人が良すぎるのもどうかと思うぞとは内心思いつつ、泣きやまない彼女に少し距離を取って声をかける彼を見ていた。

わたしたちの見解は概ね当たっていた。ストーカーの正体は高校時代同級生だった女の子。南くんに六年間片想いしていて、彼女と別れたという噂をきっかけに行動を始めたらしい。大学の方向が違うため、毎日大学終わりに南くん家のマンションへ行き、例の植え込みに隠れて写真を撮っていた。水曜は全休なので、朝から南くんを尾けることもあったという。そして今日尾けていたら、南くんとの間に知らない女がずっといて、見たことある顔だったから怪しいと思って声をかけたという。やっぱりカフェで南くんに声かけられたの見てたんだ、と冷やっとしたけれど、存外に安室さんはその点について深く掘り下げようとはしなかったので、ラッキーだった。


のいう通り、毎日写真を撮っていたのは日記をつけてる感覚だったってね」
「もともとマメな人だったんですね。気持ちはわかりますけど、わたしだったらあそこまでできるかなー」
「…同情するなよ」


安室さんの潜めるような声にギョッと見上げる。そんな風に見えただろうか。


「まさか!むしろちょっと反省してるくらいですよ!」
「反省?」
「あはは、いや…」


バツが悪くて目を逸らしながら頭を掻く。散々安室さんにストーカーしてたわたしが、今回女の人に尾けられて怖かったなんて、あまりに虫が良すぎるのではと思ったのだ。「とにかく、当分安室さんのストーカーはやめようと」縮こまりながら言うと、安室さんは呆れたようにそうしてくれと肩をすくめた。それから、自分の左頬を指差し首を傾げた。


「頬の傷、痛むかい?」
「あっ、ぜんぜん」


とっさに頬の患部を手のひらで覆い隠す。さっき女の人にバッグでぶたれたとき、金具が当たって切れたところだ。鏡を見てないからどの程度の傷になってるのかわからなかったけど、やっぱり普通に見ればわかるくらい切れてたのか。でも、血はすっかり止まってるから大した傷じゃない。それにこれに関しては感傷的になる要素がないのだ。にっと口角を上げる。


「名誉の負傷です!」
「ポジティブだね。怖かったろう」
「ま、まあ……でも、接触してくるかなと思ってたので、カメラ準備できましたし!」
「ああトラックに轢かれたアレか」


ぐうっと苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。護身用に買ったインスタントカメラは、ストーカーが接触を図ってきたときのフリスビーの役割として用意していた。つまりストーカーの顔を写したカメラを遠くにやり、証拠を残されたくないストーカーがそれを取りに行く。その間にわたしは逃げるという算段だった。わたしの手元にはストーカーの写真は残らないが、確実に逃げられると踏んでいた。それがまさかトラックに踏み潰されるとは。あんまり車通りない道だったから完全に失念してた。
コインパーキングに着き、いつも通り助手席に座る。シートベルトをしていると安室さんは車のキーを挿入口に挿しながら「というか」と切り出した。


「彼女が接触してくるってわかってたのか?」
「あ、はい!若干尾けられてる感あったので」
「は?」


あっやば!失言に気付くも時すでに遅し。「尾けられてたのか?!」驚いた安室さんに詰め寄られてしまう。運転席に座る彼はそれから表情を曇らせ、目だけを逸らした。「きょ、今日からです、よ!」「今日から…?電話したときはそんなこと言ってなかっただろ」あわわ墓穴を掘った!どうしよう内緒にしようと思ってたのに!口に手を当て見るからに動揺するわたしを睨むように見据える安室さん。どうしようちょっと怖い。


「隠し事か」


言ってから、安室さんは一瞬目を見開き、そのあと顔を歪ませた。すぐに俯いてしまい前髪で表情はうかがえなくなる。それが余計罪悪感を煽り、わたしの脳みそは冷静な対応ができなくなる。「あむろさんっ!」身を乗り出すとシートベルトが肩に食い込んだ。


「すみません!電話のあと、実は南くんに声をかけられてしまって!多分そこをあの人に見られてたみたいで……」
「…そんな大事なこと、どうしてすぐに言わないんだ」
「と、止められそうで…南くんのストーカーのフリ…」


「当たり前だろう」呆れた声で溜め息をつかれる。どうしよう指先が冷たい。車内は特別寒くないのに悪寒までしてきた。その原因が、安室さんへの罪悪感であることはさすがに自覚していた。俯いて、両手を太ももの上で握りこむ。


「す、すみません……どうしても手柄がほしくて…」
「…は?」
「安室さんにいいとこ見せたかったんです…!ちゃんと仕事できるって思われたくて…」
「ばか」


また大きな溜め息をつきながら、安室さんはハンドルに腕を乗せるようにもたれかかった。項垂れ、また表情は見えなくなったけれど、どんな顔をしてるかは容易に想像がつく。怒ってる。二人きりの密室がこんなに居心地悪いのは久しぶりだった。安室さんといるときは大抵幸せだから、初めてのことじゃないのに未だに慣れない。


「……」


何も言えずじっとうかがっていると、安室さんはゆっくりと顔を上げた。その横顔が思いの外少年のようで驚いた。暗がりの中、外の街灯から照らされる姿は相変わらずかっこよかったけれど、見慣れない顔だと思ってしまった。
ハンドルに腕を置いたまま正面を見ていた彼は、それから左にいるわたしへ目を向けた。暗いからか、やっぱり安室さんは年不相応に幼く見える。目を合わせたわたしは、どうしても逸らすことができなかった。


「必要な報告ができないんじゃ何も頼めないぞ」


気付くと安室さんは二十九歳の責任ある男の人に戻っていた。しかしそれに安堵する前に、言われた台詞が心臓を突き刺していた。「……ごめんなさい…」もう謝ることしかできなくて、身体中がじくじく痛む。怒って当然だ。だってわたしが全面的に悪いもの。ちゃんと相談すればよかった。相談した上で、続けさせてくださいって頼めばよかったんだ。それによく考えたらわたし、安室さんとした約束三つとも破ってるよ。最悪だ。今さら気付くなんて信じられない。


「わかった?」
「はい…」
「ならいいよ。…それに遅かれ早かれ、向こうも君を特定していただろうしね」
「え?」


どういうこと?目を丸くすると、安室さんはハンドルから腕を離し、今度は背もたれに寄りかかった。呆れたように脱力しているけれども、理由はもちろんわからない。


「土曜に撮られたバイトでの写真、君に料理をサーブしてる南さんの写真だったんだ」
「…えっ?!」
「ストーカー初日で偶然写り込んだってとこだろう。間が悪かったね」


頭を背もたれにつけたまま、苦笑いの顔でわたしに向く。安室さんお得意のその台詞には、さっきまでの気まずい雰囲気は微塵も含まれていなかった。ようやくホッと息がつけた。


「またまた、そんなことー」
「今日ポストに投函されてた写真を見て知ったんだ。そのことについて南さんに相談しようと思って待ってたんだけど…」
「えっ、安室さん人のポスト覗いたんですか?」
「事前に確認は取ったよ。君と一緒にしないでくれ」


淀みなく返されてしまった。まあ、今回は依頼を受けた仕事だし、たとえ無許可で覗いても責めるつもりはなかったのだけど。それから安室さんは独り言のように、「待ってたといっても、君の発信機を追えば南さんの大体の位置はわかったし楽だったよ」と続けた。その台詞でハッと思い出す。


「そうだ、発信機返しますね!」


カバンの内ポケットに手を突っ込み黒い箱状の小型機器を取り出す。うん、と受け取った安室さんがそのままフロントガラスの前に置くのを見て、デジャヴってやつだ、と思う。ふと横目で安室さんを盗み見ると、彼はどこか物憂げな表情でそれを見ていた。その真意を察せないまま、何かをフォローするように声を発していた。


「安室さんに居場所特定されてるの悪くなかったですよー!」


若干空気が読めてなかった感は否めなかった。驚いたように見開かれた安室さんの目がわたしに向く。……な、なんか変だったかな。えへ、と肩をすくめると、二拍くらい置いて、安室さんがクスッと笑った。


「そう?」


いたずらっぽく目を細めた表情に思わずどきっとしてしまう。はい、と反射的に頷くと、安室さんは右側に首を傾げて、ますます楽しそうにわたしを見た。


「そっか。君、思ったより僕のこと信用してないみたいだから、僕もまた疑おうかな」


その言葉の意味を理解するより先にどきどきと心臓が高鳴る。「えっ、えっと、」どういう意味だろうと考える頃には顔は真っ赤で、ロクな思考はできなかった。


「冗談だよ」


そう言って、安室さんの腕が伸びてくる。何もできず固まったままでいると、開かれた左手が頬に添えられ、人差し指が、ツ、と傷口を撫でた。
いよいよ心臓がうるさくなる。安室さんの人差し指はすぐには離れず、横に伸びる数ミリの傷口をゆっくりと何往復もしている。見開いた目はやけに穏やかな表情の安室さんを映していた。傷口を見ていた彼と目が合った。瞬間、ビクッと肩が跳ねた。


「ちょっ…!」


反射的にこちらに伸びていた腕を下から掴む。大して力が入っていなかったみたいですぐに持ち上げることができた。頬から安室さんの手が離れる。すぐにわたしも腕から手を離し、助手席のドアまで後ずさるように距離を取った。「?」突然腕を振り払われた安室さんはきょとんと目を丸くしていた。な、なんでそんな平然と…!真っ赤に火照った熱が治まらない。自分の両手で頬を包み込む。ヒーヒーいう脳内はすでに処理機能が停止していた。死ぬほどどきどきしてる。おかげさまで頬を包んでも右頬の傷口には触れなかった。


「あ、安室さん……色っぽすぎます…!」


なんかとても恥ずかしい。何だったんだほんとに!安室さん妙に優しい顔してたし、それになんか、さっきより近かったような…。爆発しそうになる心臓に手をやるとはっきりわかるほどバクバクと鳴っていた。


「……ふふっ…」
「へ?」
「ふ、あはっ、はは…っ」
「な、なんで笑ってるんですか…?!」


「あははっ、ごめんごめん……ふふっ」突如肩を震わせて笑い出した安室さん。恥ずかしくてもはや涙目のわたしだったけれど、安室さんのツボにびっくりして引っ込みそうだ。というか安室さんも、大声こそあげないものの泣きそうなほど笑ってる。どこにそんな笑う要素が…?!こっちは大真面目なんだけど!あまりに笑われるものだから、次第に別の意味で恥ずかしくなってしまう。笑い止む気配のない安室さんに八つ当たりするように、肩へ軽くパンチする。


「…もー!早く発車してください!」
「はははっ…そうだね、かしこまりました」


本当に楽しそうに笑う安室さんはそれからすぐにキーを捻り、車を発進させた。送ってもらう家までの道のりに特別話題はなかったけれど、ときおり思い出したように安室さんが笑うから、わたしはもう笑わないでください!と怒った。そんなやりとりを何度もしてるうちにわたしもだんだん面白くなってしまって、最後のほうは全然気迫のない声になってしまった。


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