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 目暮警部が睡眠薬のついたペットボトルを探すよう指示を出すと、即座に応答した高木刑事がこちらに向かってきた。一瞬驚いて、すぐ、自分が彼の進路の邪魔になっていると気付き横にずれる。バタンと閉まったドアの音はもはやここまでと言っていたけれど、目暮警部に署までの同行を願い出された小暮さんは、ニット帽に新しい毛糸を編み込むにはハサミが必要だと反論した。すかさず真純ちゃんが、爪切りを使ったんだろうと返す。


「そ、それはみんなあなたたちの想像でしょ?私がやったなんて証拠はどこにもないじゃない!」
「バレバレだよ…」


 コナンくんが彼女の右手を取っていた。向けられた手の平へ、全員の視線が集中する。


「だってお姉さん、せっかく爪切り借りたのに、爪切ってないじゃない!」


 少し離れたここからでも見える、指先からはっきりと見えるほど伸びた爪。それは、今日はもう演奏どころじゃなくなることを知っていた、犯人の爪先だった。

 動機は、同じバンドグループに所属していたボーカルの復讐だった。ボーカルだった朱音さんという女性はある日、酔った山路さんに「もっと歌声に深みがほしい」と言われたため、飲めないお酒でうがいをしたり、クッションに顔を押し当てて大声を出したりしてなんとかハスキーボイスになってみせた。にも関わらず山路さんは、その努力を台無しにする言葉を浴びせ、さらには無慈悲にも他の人にボーカルを変えさせたという。ひどく傷ついた朱音さんは数日後、車に飛び込んで自殺してしまう。
 ボーカルの人が亡くなったことは、クラスメイトたちの会話で知っていた。けれどまさかバンドが原因で、しかも自殺だったなんて。完全に部外者のわたしが、努力を責められる朱音さんと、一番の友達である朱音さんの無念を晴らした小暮さんと、彼女に殺された山路さんそれぞれの立場に立って、勝手にやりきれない気持ちになってしまう。


「違うよ留海……」


 ベースの笛川さんが静かに否定する。信号無視をして車道に飛び出したのはどこかの男の子で、朱音さんはその子を助けようとして車に轢かれたのだと。

 顔を上げる。小暮さんと笛川さんたちのやりとりを、呆然と聞く。血液をぐるぐる掻き混ぜられている感覚と、微塵も働かない思考のまま、目の前で明かされる朱音さんの死の真相と、小暮さんの勘違いが、どんどん辻褄を合わせていく。反対に、わたしの視界は暗くなる。


「喉が治るまで絶対に声は出すな。その程度のかれ具合なら絶対に元のきれいな歌声に戻るからって……酔った勢いでバカのこと言ってゴメンってね……」


 だから朱音さんは男の子に声をかける前に身体で助けようとした。小暮さんは、朱音さんが亡くなったショックで寝込んでいたから、事故の状況を知らなかった。
 朱音さんは自殺じゃなかった。そうと知っていれば、小暮さんは山路さんを殺しはしなかった。

 今度は身体中がどんどん冷えていく感覚がする。心臓を強く押されているような息苦しさを覚える。両手の指先を温めるように口元に持っていくと、吐き出す息が震えていた。


「そ、そんな……私、どうしよ……萩江を……」


 勘違いで友人を殺めてしまった小暮さんの悲痛な泣き声が耳にこだまする。きっと、一生消えない。



◇◇



 警察と小暮さんに続くように、笛川さんと木船さん、真純ちゃんとコナンくんの順で休憩所をあとにする。自分はスタッフだから一番最後、という意識があったわけではなく、ただ動く気力が湧かなくて、全員が部屋を出ていく背中をぼんやりと見つめ、最後尾の安室さんが振り返ったのに気付いてようやく足を動かしたのだった。
 休憩所を出て左手の階段は狭く、二人並んだら窮屈に感じるほどの幅のため、みんな前の人と少しずつ間隔を空けて順々に上がっていっていた。後ろでドアを閉める安室さんが言外に先を譲ってくれたため、一段、二段と踏みしめる。
 すぐに、安室さんがついてきていないことに気付いた。と、同時に名前を呼ばれる。





 足を止めて振り返る。安室さんは、地下の床に両足をつけたままわたしを見上げていた。何だろうと思いつつ、片足をかけた三段目から一つ下ろして二段目に揃え、身体を完全に安室さんに向ける。二段分の段差のおかげでわたしのほうが目線が高い。
 安室さんの表情は極めて冷静に見えた。加えて、わたしの細部まで見逃さないと言わんばかりの精密な眼差しだった。口は閉じられ、心の揺らぎなど一つもなさそう。なのになぜか、悲哀の青い色だけが滲んで見えた。
 安室さんの、右手が伸びてくる。わたしは合った視線を逸らせず、動けないままだった。
 親指の腹が、わたしの左の目尻を拭った。払った手がそのまま横の髪の毛をすくって、離れる。


「大丈夫か?」


 安室さんの親指には何もついていない。けれど、今、彼が何をしたのかわかってしまった。少しも濡れていない親指を目で追って、それが彼の腰近くへ下がっていくのを見届ける。


「だいじょうぶ」


 声を発した途端、急速に鼻が痛くなる。目の奥がひりっと熱くて、次第に視界がぼやけていく。


「じゃないです……」


 少しでも気を緩めたら零れ落ちそうだった。でも、泣き言を漏らしておきながら、安室さんの前で泣くのはかっこがつかないと強く思っているため、せめてもの矜持を持って、下手くそにでも笑ってみせた。
 安室さんも、困ったように眉を下げ、小さく笑ったようだった。安室さん、さっき彼女たちの事情を聞いて、気付いていたんだな。わたしの罪の意識の奥行きが、途方もないことに。青い色はわたしへの哀れみだった。


「なんか、ほんと……すごく後悔してて……わたしがあのとき、って考えちゃって、つらいです」
「うん。君は当事者だったと思ってしまうんだろうね。それこそ、誰が何と言おうと」


 頷いて、俯いたまま鼻の根元を押さえる。しばらく、息を止めていた。
 君のせいじゃないと、君は悪くないと、わたしを慰めるためなら安室さんは言ってくれるのかもしれない。でもやっぱり、どう考えたって、わたしには犯行を止められる機会がほんのすぐ目の前にあったのに、仕損なった。結果起きた悲劇が、わたしのせいじゃないと納得できる気がしない。今日防げていたら、小暮さんの誤解が解けて、明日も明後日も仲良くバンドの練習をしていたかもしれない。考えるとどこまでも深く落ちてしまう。
 安室さんも、わたしが今どういう気持ちでいるのかよくわかっているんだろう。だって言葉を選んでいるのがよくわかる。こんな、心が沈んでしまうことで通じ合いたくなかったな。
 気遣ってくれのは、嬉しい。安室さんはいつも優しい。静かに息を吐き、ゆっくりと吸う。目を開く。悲壮の波が一旦遠ざかる。その隙になんとか大丈夫な風に取り繕おうと、緩く口角を上げてみせる。


「わたし、今日ついてなかったんですね……安室さんの言った通りでした」


 冗談めかしたつもりだった。安室さんにも、そうだよ、って笑ってもらえると思った。
 けれど思いの外、彼は呆気に取られたように目を丸くしたのだった。まるでショックを受けているようにすら見え、内心動揺する。
 言葉を間違えたかも。背筋を凍らせたわたしが何かを言う前に、安室さんは笑った。それが、たった今、自分が取り繕おうとして作った表情の工程とまるで同じだったものだから、ますます困惑してしまう。安室さんが今までこんな顔を作ってみせたことがあっただろうか。


「今日のことは、いずれ心の整理ができるようになる。……あまり深く考えすぎないようにね」


 そう言った安室さんは、もう無理をしている風ではなかった。哀れみと労りを滲ませた、いわゆる同情の笑みで、わたしを見上げていた。
 安室さんは一貫して、わたしの心を気遣ってくれる。安室さんはわたしを責めない。事件が発覚した当初は、自分に非があることばかり頭にあって、責めてもらいたいとすら思ったけれど、実際にされていたら計り知れないダメージを負っていただろう。自責していようが身構えていようが関係なく、一番すきなあなたにひどい言葉をぶつけられたら、心が千々になるほど傷つく。きっともう二度と救われない傷に大人げなく大泣きしていた。だから安室さんが、わたしにただただ優しいことが、どれほど安心か。
 沈みきった心を安室さんの手がふわふわとすくい上げてくれる。わたしを落とすのが安室さんじゃなくてよかった。





「でもすごいよ世良ちゃん!またまた事件解決しちゃって!」


 階段を上りきる直前、一階から蘭ちゃんたちの話し声が聞こえてきた。「そうか?まあ、安室さんや――」真純ちゃんが、ちょうどロビーに顔を出したわたしたちを一瞥し、すぐに目線を下げコナンくんを見下ろす。「コナンくんが協力してくれたから、このくらい楽勝さ!」どうやら、女子高生探偵の活躍を称えていたようだ。


「ま、ボクが探偵をやってるのは兄の影響だけどね!」


 女子高生三人の会話を聞いていると、どうやら彼女には二人の兄がいて、一番上のお兄さんはFBIの捜査官だったのだそうだ。しかし彼はすでに亡くなっているとのことで、真純ちゃんも身近な人の死を経験しているんだと、同じ立場でもないのに勝手に親近感を覚えてしまう。


「その人の名前って……」
「赤井秀一っていうんだ!カッコイイだろー?」


 名前を聞いたコナンくんに得意げに答える真純ちゃんに、自然と笑顔になる。お兄さんのこと、誇らしくて、大好きだったんだなあ。そんな人が亡くなったのなら大変に悲しいだろうに、真純ちゃんは明るくあって、強い子だ。見習いたい。
 よし、と両手を合わせて一人気合を入れる。わたしも強くなる。心の整理も、いつかつける。安室さんが言っていたから大丈夫だ。
 そうだ、さっき安室さんに言おうと思ったことがあるんだ。


「安室さん」
「ん?」


 真純ちゃんたちを腕組みして見つめていた安室さんに顔を上げる。横顔が険しい気がしたけれど、気のせいだったみたいで、安室さんは至って何事もないみたいに横目でわたしを見下ろした。


「ミステリートレインでわたしが、あの、寝ちゃった話なんですけど」
「ああ」
「安室さんのさっきの、山路さんを確実に眠らせる方法を聞いて……わたしも誰かに睡眠薬をお茶に入れられたのかな、って、思ったんです」


 ミステリートレインから降りたとき、カバンの中には貴重品がしまわれていたけれど、食べかけのお菓子やペットボトルは入ってなかった。きっと安室さんが処分してくれたんだろうと思う。もしそれが手元にあれば、どうにかして調べられただろうか。だってもし睡眠薬を盛られたとしたら、わたしの罪が少し軽くなる気がして、その可能性に飛びつきたくなってしまったのだ。


「あはは……なんちゃって」


 でも我ながら突飛すぎる想像だ。呆れられるかな、責任転嫁するなって言われるかな。頭を掻いて、大げさに肩をすくめる。でも安室さんは優しいから、たぶん、今日のわたしを表立って責めない。
 思った通り、安室さんは少し目を丸くしたあと、わたしに向いて、笑ってみせるだけだった。


「もしそうだったら、怖いな」


 否定でも肯定でもない切り返しによかったと安堵する。実際のところ、睡眠薬を盛られる原因に身に覚えがないし、わたしを眠らせて得をする人なんていないのだから妄想でしかない。少し考えたら可能性は限りなくゼロに近いことに安室さんだってわかるだろうに、一旦でも聞き入れてくれたことが嬉しかった。
 それだけで満足だったものだから、わたしは、安室さんの笑顔の意味なんて考えもしなかった。


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