少し肌寒くなってきた気候に、尸魂界の冬はきっとすぐそこで身を潜めているのだ、と隊舎の通路から中庭の草木の陰へ目をやるけれど、もちろん見つかるはずはないので、特別感慨もなく縁側に腰掛けた。休憩をもらって執務室を出てきたものの、これなら部屋にいるほうが正しかったかもしれない。今まで薄い掛布団一枚で粘って寝ていた夜は、いよいよ毛布を出さないと我慢できなくなりそう。それから、休憩時間のために襟巻きや羽織を用意しなければ。とりいそぎ思いついた冬支度の決行を心に誓う。今羽織っているこれには劣るけれど、家にある赤い羽織もいい勝負の上物で、今年の春、現世に行った際冬物の安売りで買った逸品だ。今冬に使うのを楽しみにはしていたけれど、まさか秋も終わらない内から出番があるとは思っていなかった。
 夜遅くなると衣替えが億劫になりそうだから、今日は早く帰りたいなあ。ぼんやり考えていると、右の通路から足音が聞こえてきた。気になったけれど、振り向いて親しくない人だったら気まずいから、気付かないふりをする。スタスタと歩く音が近づく。すぐそばで止まる。


「なに無視してんねん」
「……あっ、なんだ真子か」
「真子かて」


 ホンマに気ィついてへんかったんか。こっちまで脱力しそうな顔をした真子はそう言うと、特にわたしの了解を求めることなく隣に腰を下ろした。求められたところで、いいよ以外の返事をするわけがないから、いいのだけれど。背筋を丸め、机仕事ホンマかったるいわァとか愚痴みたいなことを零す横顔を眺める。すぐに帰らないなら、執務室にある急須にお茶を淹れてこようかなあ。真子飲むかな。思案していると、「?大丈夫かおまえ」心配させてしまったようで、首を傾げられた。 彼の瞳に焦点を合わせる。


「お茶飲む?取ってこようか」
「いらん、いらん。さっきもろたし。拳西に」
「そっか」


 ここにいるということから明らかだったけれど、やっぱりうちに書類を届けに来ていたらしい。拳西、あと少しで休憩するって言ってたくせに、まだやってんのかな、勤勉だなあ。それに比べて白は今日一度も顔を見せていないけど、どこに行ったんだろう。
 直属の隊長にタメ口で接し、白と一緒にからかって遊ぶのはよくあることで、それが日常の九番隊がすきだった。仏頂面ですぐ怒る拳西に白はぶーぶーと文句を言うけれど、なんだかんだ二人には確かな信頼が築かれているように見えて、いい上司たちだなあと思う。それだけでも幸運だろうに、例えばこうやって、一人でぼんやりしていたら真子が隣に座ってくれるのだから、楽しい職場と心地よい人間関係に身を置く自分は幸せ者だと、しみじみ思うよ。


「そんなことより、それおまえのやったっけ?」
「これ?違うよ」


 真子の視線はわたしが羽織っている灰色のそれに注がれていた。女物にしてはサイズが大きいし色も地味だ。否定すればさらに訝しげに見つめる彼は、見覚えはあるもののどこで見たのかまでは思い出せていないようだ。「拳西のだよ」もったいぶることでもないのであっさり教えてあげると、真子は少し記憶を遡ったあとハッとして、それから顔をしかめた。つい苦笑いしてしまう。駄目だったかな。
 おととしの冬に、いつもお世話になっているからと白と一緒に買った羽織。袖なしの死覇装と隊長羽織を身にまとう彼が仕事でも非番の日でも着られるように、二人であれでもないこれでもないと吟味して決めたのだ。渡したとき、拳西は眉間の皺こそ消さなかったものの、笑ってわたしたちの頭を撫でてくれた。あれは嬉しかったなあ。
 まあ、実際の活用方法は、羽織るのではなく、休憩時の掛け布団代わりが主だったのだけれど。ほとんど執務室に常備されているから、今日防寒具を持ってこなかったわたしに拳西が貸してくれたのだ。まったく優しい男だこと。
 九番隊の執務室で見たことがあったのだろう、思い出したらしい真子は顔をしかめ、わたしへと手を伸ばした。え、と思ったときには二の腕に触れていて、羽織越しの確かな感触に、心臓が律儀に反応してしまう。


「おまえ、それはアカン」


ぎゅっと握られたのは灰色の羽織だけだった。思わず肩の力が抜け、変な笑みがこぼれる。ああ、やっぱり。駄目だったんだなあ。


「……怒った?」
「もうすぐな。そのまんま着とったら機嫌取るんごっつめんどくさなんで」
「それは嫌だなあ」
「ならはよ脱げ。寒いんなら俺のこれ貸したるから」
「ええ、それも嫌だよ、隊長羽織なんて借りられるわけないじゃん」
「気にせんでええ。誰も見てへん」
「はは、照れる」


 何がや、と手の甲で軽くおでこを叩かれる。なんだか真子と密会している気分になったのだ。どきどきと脈打つ自分の心音が心地よくて、このまま真子に身を任せてしまいたくなる。
 とにかく、この羽織を着ていると真子の機嫌が損なわれるらしいので、おとなしく言われたとおり脱ぐことにする。今日はやっぱり肌寒い。君のつまらないやきもちで温めてくれよなんてアホみたいなことを言えば笑えてぽかぽかするのかなあ。まさか、口にできるわけないのだけどね。


「ほれ」
「だからいらないってば」
「寒いんやろ」
「だからって隊長羽織は」
「誰も何も言わへんて」


 半ば強引に肩に掛けられいよいよ観念する。これこそ上物であろう隊長羽織は、軽そうな見た目に反し背負う重責のせいか心なしか重く感じた。今わたしを知らない人が通りがかったら、五番隊隊長だって勘違いしてしまうのかな。隊長位はもちろん、五番隊ですらないのに。
 そう思うと、こんな経験なかなかできない。なんだか愉快になって、「じゃあこれ貸してあげる」「おー、おおきに」代わりに拳西の羽織を貸してあげた。真子は拳西と背丈こそあまり変わらないけれど、痩身だからさすがに大きいかなあ。でも羽織に細かい規格なんてないから同じかなあ。気になったけれど真子はそれを肩に掛けただけだったため、確かめることは叶わなかった。まあいいか、と空を見上げると、太陽は雲に隠れ、弱い光だけが辛うじて存在を主張していた。


「最近どんどん寒くなっていくよね。この間まではすごく暑かったのに。やだなあ」
「ここんとこ天気が悪いだけやろ。冬はまだ先やで」
「暑いのも嫌なんだよ」
「まァ、そらな」


 真子が肩の力を抜く。丸まった猫背を目線だけでなぞる。


には春と秋が交互に来たらええのにな」


 それは名案だ、と笑う。背中から伝わるほのかな温もりは、さっきまでこれを着ていた真子の体温だった。今彼の背中にもわたしの体温が伝わっているのだと思うとむず痒くて恥ずかしくて、さらにはそれらを飲み込む大きな幸福に満たされる。嫌いなものが多いわたしでも、真子との素晴らしい時間があるのなら、真夏の太陽だって真冬の雪だって愛すよ。